地図を携えて線路端を歩いた日々 -15-

飯田線⑥ 各駅で交換列車を撮る

飯田線は、私鉄が出自のため駅は多いが、交換不能な棒線駅もある。そこで、飯田線唯一の信号場、大沢信号場が、昭和41年、伊那田島~高遠原に設けられた。一線スルーを右側通行して行くED194の牽く下り貨物(昭和45年8月)。

飯田線は全線が単線、しかし電車区間だけに列車本数は、そこそこあって、各駅での交換が必然的に多くなります。各駅停車に乗って、時刻表を睨みながら、交換を予測し、駅に近づくと窓にへばりついて、例によっての“窓から撮影”となります。今回は、駅間の撮影地には当てはまらない、交換駅や駅停車中のシーンを北から順に並べてみました。
初めて飯田線を訪問した昭和45年8月、飯田から245M(三河川合発辰野行き)に乗って、辰野まで乗り通した。交換のため、数分停車の北殿で、乗車列車を撮影した。先頭クモハ61004(上)、後部クモハ43015(下)
北殿に進入し交換する1226M、クハユニ56004(上)、顔を揃えた両列車、昭和45年の飯田線、まだ方向板を使用していた時代だった。
伊那北駅を通過していく285レ、ED2612の牽引(昭和46年2月)。

沢渡 進入する239M、先頭はクモハ51200、クモハ43の3扉改造車で、200番台は、電動機の増強型だそうだ。端正な顔立ちも、幌枠が撤去されて魅力が半減。下は、後部のクハニ67903、900番台は、クハ55を荷物合造車に改造したもの(昭和49年6月)。
伊那福岡駅で交換する「天竜」、キハ58791+キハ5718 「天竜」は運転区間が複雑に変化しているが、この時期は、長野~飯田の運転、篠ノ井線がまだ非電化だったからDC列車(昭和45年8月)、
大沢信号場 クハユニ56003 タブレットの授受装置がセットで設置されている。信号場の設置は、隣合う交換駅の中間に設けると時間ロスがない。大沢信号場も交換可能な上片桐、七久保の中間に設けられている(昭和52年8月)。
山吹駅 1228M(辰野発豊橋行き)クハユニ56004+クモハ50004+クモハ54112の編成、先頭クハユニ56004は、クハニ67からの改造で、飯田線独自の形式(昭和49年6月)
温田 DRFCの夏期合宿先として名高いところ。私は不参加だったが、この時期にも、一部、天竜峡以南にEF10が進出していた(昭和45年8月)。
門島駅 昭和52年8月の撮影で、この頃になると、ED電機は姿を消し、貨物牽引はEF10の天下となっていた。
伊那小沢 同じくEF103牽引の貨物列車、天竜川に沿ったトンネルとトンネルの間の駅、いまは人口も希薄な地域だろうが、当時は道路を行く人たちが写真に写っている(昭和52年8月)。
城西 ED183の牽く貨物列車。こちらも天竜川に沿った小さな交換駅、旅客列車を待たせて、ゆっくり通過して行く(昭和47年2月)。
佐久間駅に進入する乗車列車(1226M)から、交換する1225Mを見る。先頭クハ68404。大嵐~佐久間はダム建設により、昭和30年に天竜川を避けて、迂回ルートに変更された区間で、佐久間駅も、その際に移転している(昭和47年2月)。

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -15-」への6件のフィードバック

  1. クモハ61004は確か、ここに来る前は中央線で毎朝浅川(現在の高尾)行きの急行(現在は快速と称している)の最後尾に付いて63系に伍して奮闘していて、それにほぼ毎朝乗っていました。。当時から前後に幌枠が付いていましたが、貫通路としてはつかわれることはありませんでした。関東地方では運転台のある側の貫通路は幌を付けて編成の中間に入ったとき乗客が通行できる用にするという発想は無く、故にこのクモハ61は関西から転じて来たに違いないと信じています。運転台側貫通は横須賀線に関西から来た42,43,69が始まりです。只これらは横須賀線の貫通幌が客車と同じく両端面常設だったからです。

    • クモハ61の思い出を頂戴し、ありがとうございました。旧国のことは、あまり詳しくありませんので、本から転載しますと、クモハ61は「大鉄配置のモハ40初期車5両は、戦後に主電動機を出力アップし、改番で新形式モハ61(クモハ61)となり、61004、61005は東鉄東神奈川区を経て、飯田線に転属し定着した」(JTBパブ「旧型国電50年Ⅱ」)と書かれており、村樫様が実見されたのは、東神奈川区時代だったのでしょうか。幌枠の使われ方の興味深い話も聞かせていただきました。こんなところにも、関東・関西の流儀の違いがあるのですね。

  2. 総本家青信号特派員様

    復帰、お待ちしておりました。
    14回に続く15回、『旧国』満載にウハウハしております。
    それ等の旧国は、何れもカツテ何処かで会った事のある懐かしい顔で、大いに癒されました。
    終焉も迫っていたこの頃の旧国は、1両毎に歴史が有って、改造歴や転属歴を遡って思い返すのも楽しいものです。
    同時に飯田線の特徴として、各地から集まった車両が同一編成を組んで走っている楽しさがありました。(悪く言えば『成れの果て』?いや『寄せ集め』?)
    前面の塗り分けもマチマチで、幌も付いていたり無かったり、前面の通気口も関西式が混ざっていたり。
    堪能させていただきました。

    • 河様
      長いトンネルを抜けて復帰しました。コメントをいただき、ありがとうございます。
      私は、車両・編成を、どうしても十把一絡げに見る傾向があって、なかなか車両ごとの個体差にまで、興味が行きませんでした。今回、飯田線を採り上げて、その差を見つけ出す楽しみを得たような気がします。これも皆さんからのコメントを頂いて、気づいたようです。画一化、標準化された今では味わえない、昭和の鉄道の楽しみ方ですね。

      • 総本家青信号特派員さま
        シリーズ当初から懐かしくも楽しく読ませて頂いております。小生も似たようなことをしてきたからです。地図の等高線を眺めて線路勾配を思い描いてはいたものの、等高線に色付けするち密さは持ち合わせていませんでしたが。
        大沢信号場へ行かれましたか。小生も何度か計画したものの前後の駅からのアクセスが悪かったのと、信号場周辺がもひとつムービー向きではなかったので果たせませんでした。もう信号場は無いだろうと思っていましたが、昨年夏に通ったときには未だ在ったので驚きました。合理化が進んだ現在でも残っていることが信じられません。
        思い返せば中学時代の地図帳に河岸段丘の典型例として載っていた「田切地形」と共に飯田線の特異線形を知ったことと、旧国の魅力がその後の訪問の動機だった気がします。仰るように一両毎に個性のある車両で編成された列車は魅力的でした。珍車・奇車も居ましたしね。
        そう思うと最近の車両は画一化され過ぎて何の面白味も感じないですね。まさに昭和の鉄道の良さだったとしみじみ思います。

        • 1900生さま
          コメント、ありがとうございます。大沢信号場、実は交換列車の窓から撮影しており、現地へ行ったわけではありません。駅間が短いはずの飯田線に、信号場があるのが不思議で、以前からその存在が気になっていました。いまも残っているのは、後年に設置されただけに、一線スルーなど、線形が良いためではないかと思います。1900生さんはたしか中学校時代、地歴部におられたとか、伊那谷は、まさに地理も歴史も楽しめる場所ですね。

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