飯田線(1) A地点:沢渡駅
地図シリーズ、今回は趣向を変えて、蒸機区間をやめて、電車・電機の走っていた飯田線に移ります。飯田線が前身の四つの私鉄をつないで全通してから80周年を迎えたとのこと、鉄道雑誌の記事特集を見て初めて知りました。飯田線はかつて旧型電機・国電の宝庫として注目されましたが、それが終わると、あまり顧みられない線区となりました。改めてチェックしてみると、私も過去4回、飯田線に行っていますが、“撮りっぱなし”の典型で、ほとんど振り返ることもなくネガは眠ったままでした。今回、80周年を迎えて、自分なりに過去の思い出を掘り返してみたいと思った次第です。▲辰野から乗って12番目の駅、沢渡で待望のED19の牽く貨物列車と交換した。キロポストは190を示すが、実際の営業距離は173.4キロ、たび重なる渓谷区間の路線改良・短縮に対応していないようだ。
飯田線は豊橋から辰野まで、愛知、静岡、長野の3県にまたがる195キロの山岳路線。その起源は明治30年に開通した豊川稲荷への参詣客を運ぶ豊川鉄道だった。以降、伊那電鉄、鳳来寺鉄道、三信鉄道によって延伸され、昭和12年に豊橋~辰野が全通、昭和18年に国鉄飯田線となり、ことし全通80年を迎えた。
飯田線は、車両面で注目されたところだが、線形、車窓風景にも変化があって、地理的、地学的にも興味も深いところだ。豊橋を出て、豊川、天竜川の険しい渓谷をたどると、天竜峡以北は中央・南アルプスを遠望する広々とした車窓となる。対照的な車窓風景だが、伊那谷と呼ばれる天竜峡以北は、並行する山脈の隆起によってできた断層と、天竜川が造り上げた河岸段丘が大規模に発達している。飯田線は急勾配を避けるため、右に左にカーブを切る。天竜川へそそぐ支流が段丘を深く削り込んだため、上流方面にさかのぼり、短い鉄橋で支流を渡り、再び戻って来るΩカーブが各所にある。鉄橋、カーブと来れば撮影の適地でもあり、景色は良いが撮影は困難が伴う天竜峡以南より、自然と足が向いたものだ。
▲五万分の1地形図「赤穂」の一部を縮小・文字を加工▲何気に降りた駅、沢渡(さわんど)、対向式ホームに側線少々、小さな木造駅舎と、いかにも前身の私鉄を思わせるコンパクトな駅だった。▲電車もさることながら、飯田線は貨物も結構多い。この沢渡にも、小規模な石油基地があり、タンク車の入れ替えも見られた。▲駅の配線は下りホームの一部が切り欠きになっていて側線が伸びていた。到着するクモハ51200ほかの下り電車。▲当時の飯田線は、非自動閉塞区間だった。タブレットを受け取り、ED18の貨物列車が発車する(以上、昭和47年2月、昭和49年6月撮影)
総本家青信号特派員様
飯田線は景色の多様さと車両のバラエティーがあり魅力的な線区でした。飯田線合宿を思い出しました。ED18やED19には機関助士も乗っていますね。蒸機ならいざしらず、電機の機関助士は横に座っていただけなのでしょうか。ワフには車掌も乗務していたのでしょうか。時代を感じさせます。ED19の貨物列車ですがタム?+ホキ+ホキ+ワフのようですが、特に3両目のホキ?が気になります。飯田線沿線にセメント系の工場がありましたっけ? いずれにせよコンテナ一色の昨今に比べてこの時代の鉄道は本当に楽しかったとつくづく思い出しています。続編が楽しみです。ありがとうございました!
西村様
さっそくのコメント、ありがとうございます。飯田線の合宿は、私は行かなかったのですが、温田で行われたのですね。電機の機関助士の仕事ですが、タブレット区間のため、通過の際のタブレット授受ぐらいでしょうかね。ホキの使用途ですが、私は確認しなかったのですが、書籍には、今回紹介の沢渡にも、セメントサイロがあったとのことでした。長野県は内陸のため海運ではなく、今でも石油・セメントの重量物を鉄道に頼ることが多いようです。
西村様
いま発売の「レイルマガジン」を立ち読みしていましたら、当時の貨物の記述がありました。昭和59年以降、日本車輛からの新車搬出のある豊川以外で、貨物取扱い駅は、沢渡、七久保、上片桐、元善光寺の4駅のみで、いずれも、石油基地、またはセメント関係の工場があったそうです。ここで紹介の沢渡にも、セメント関係の工場への専用線も伸びていたようです。
総本家様
ご丁寧なるコメントのフォローありがとうございます。飯田線合宿の際にはEF10の牽く貨物も撮っています。北に行くとED26がいたり、短い編成の貨物列車は納まりがよく、撮影場所に事欠かない楽しい線区でした。今ではなかなか電車だけを撮りにゆく元気はありませんが、もし今もあのような貨物が走っていればすぐにでも行ってみたいですね。