地図を携えて線路端を歩いた日々 -4-

C地点

続いて折尾~中間のC地点付近に移ります。立体交差地点で複々線が入れ替わり、C地点では方向別運転になります。短い切り通し区間を過ぎると、左右が開け、ゆったりとした編成写真を撮ることができました。今でこそ宅地ビッシリですが、周囲は田が広がり、サイドからの真横写真も撮れました。そしてつぎの駅、中間駅へと至ります。
ここで、この区間の現状について記しておきますと、立体交差付近には昭和63年に新しく東水巻駅ができています。駅を中心に周辺は宅地化が進んでいますが、立体交差はそのまま残置されています。複々線もさすがに過剰インフラとなり、折尾駅は2線の対向ホームですが、発車するとすぐ単線になります。 また黒崎方面からの短絡線も単線化され、両者が寄り添う地点で両渡りポイントを設けて、ここからは複線構造となっています。さらに今は、折尾駅連続立体交差事業が進められ、付近の地形すら変えてしまうほどの大工事が2021年を目指して進行しています。


しばらく両側に切り通りが続くB地点とC地点の中間付近を行くトラ、ワムなどの一般の貨物列車、セフ1を緩急車代用で使っている。69646〔若〕が牽く(昭和46年9月)。
ほぼ同地点を行くC5546〔若〕の牽く若松発原田行き733列車。同機は現在、大分市内の公園に保存されていると言う(昭和44年3月)。
切り通しを抜けると、左右が広がって、ゆったりとした雰囲気で写せるようになる。邪魔物がほとんどない、展望が開ける。 49688〔直〕の牽く660レ(昭和45年9月)。
D5142〔直〕の牽く8688レ、ナメクジD51は4両が直方区に配置されていた。この42号はその後、南延岡区へ転属した(昭和44年3月)。
D6022〔直〕の牽く2374列車、昭和初期生まれの古豪が牽く長大貨物はさすがに存在感があった(昭和44年3月)。
同じD60でも、このD6052〔直〕は、郡山区で磐越東線の客貨を牽いていた。同線のDL化で筑豊へ来たカマ、集煙装置を取り外したため煙突が他機より短く、シールドビームと筑豊では異色のカマだった(昭和46年12月)。 この付近、サイドからも撮れる。線路はほぼ南北を向いているから、陽が傾く頃には、ギラリが期待できる。C5557〔若〕の牽く飯塚発若松行き736列車、前稿のように、同機は最後の現役C55として昭和50年まで生き延びた(昭和44年3月)。
逆向で590レを牽く49654〔若〕(昭和46年12月)。
1734列車を牽くD5142〔直〕、旅客はC55が中心だが、D51や下記のD60も旅客を牽いたが、なぜか旅客を牽くD51は、ナメクジ機ばかりだった(昭和46年12月)。
ギラリの極まった736列車、牽引のD6026〔直〕はK-7形の門鉄デフを装備、廃車のD50から譲り受けたと言う(昭和46年12月)。
夕暮れ時になると、今まで西側からのギラリ狙いをやめて、東側へ移り、シルエット狙いに切り替える。半日イヤッと言うほど撮り尽くして、陽が沈むのを見届けて、駅への道を急いだものだ(昭和46年12月)。

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -4-」への3件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    こういう場所にもっと行っておくべきでした。当時は金もなくただ数多くの蒸機を撮りたいと機関区めぐりを中心にしていましたが、この区間で夕日傾くころまでねばると相当の収穫となりますね。掲載写真の中で旅客列車牽引のD6026という機関車は門鉄デフを付けていますが私が1967年9月7日筑前植木で撮影した同機は普通のD50のデフでした。ということは普通のデフよりも門鉄デフの方が除煙効果が大きいと言うことですかね。デフレクターの効果というのが今一よくわかりません。キューロクはデフなしが基本でしたし、アメリカなどはほとんどのカマがデフなしのようです。

  2. 準特急さま
    いつも暖かいコメント、ありがとうございます。当時は私も、たくさんの蒸機を撮りたいという願望が第一にありました。この区間は、機関区以上に数多くの蒸機が撮れるところでした。その証拠に、半日もいると、顔が汗と煤で黒くなったものでした。デフの除煙効果ですが、小倉工場が切り取りデフを試作した際にテストしたところ、煙を上昇させるのは、デフ上部に取り込んだ風だけで、デフ下部には、煙を上昇させる効果は見られなかったそうで、より点検しやすい切り取りデフに切り替えたそうです。

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