飯田線⑧ 中部天竜のバス
飯田線シリーズの最後は久しぶりのバスネタで締めくくります。前回紹介した中部天竜駅前から、たった2台という日本最小の路線バス会社が佐久間ダムの間を結んでいました。
▲終点「佐久間ダム」で発車を待つ共益バス、前身は長距離用に造られた国鉄バスで、国鉄時代のナンバーは641-7901、昭和42年製造のいすゞ製。共益バスはあと1台所有するだけの事業者で、手許にあった当時の日本バス協会「会員名簿」によると、ともに香川県の鬼ヶ島観光自動車、直島バスも路線バスが2台だったが、両者は貸切バスも保有しており、路線バス2台だけの共益バスが当時、日本最小のバス会社だった(昭和52年8月)。
地図を見ると、中部天竜から北西方向に佐久間ダムがある。佐久間ダムは、静岡県と愛知県にまたがる、天竜川に建設された高さ155mの重力式ダムで昭和31年に完成した。昭和30年代では最大規模の発電量を持つダムで、戦後日本の土木技術史の原点となった。われわれ世代では、記念切手が発行されたことも記憶に残る。
現在でも、日本では高さで9位、総貯水容量で8位の巨大ダムであり、つくられた電力は、関東圏・中京圏へ供給しているが、発電機は50Hzと60Hzのどちらも発電できるようになっているという。ダムによって造られた人造湖の佐久間湖は、天竜奥三河国定公園に指定されている。
佐久間ダムへは、国鉄バスが中部天竜からバスを運行していたが、昭和41年に廃止となり、昭和39年から運転を開始したのが、電源開発グループである共益株式会社が運行する共益バスだった。国鉄バス廃止後は、佐久間ダムを訪れる観光客を一手に引き受けることになったが、次第に佐久間ダムは寂れた観光地となっていき、共益バスも昭和59年に運転を止めてしまった。佐久間ダムまでの公共交通機関も消えて、翌年に国鉄の周遊券の周遊指定地から佐久間ダムが無くなってしまった。これが周遊指定地削除の第一号だった。
◀共益バスの路線図、佐久間駅前へ行く便もあった。▲もと国鉄バスの共益バス「浜松22か・691」、社内にはJNRマークの入った時計があった。国鉄時代のナンバーは、641-7901で、いすゞ製、昭和42年製、国鉄バス時代の前歴を知りたいと思い、ネットを調べていると、なんと全く同じ641-7901の写真を見つけた。それは名古屋~金沢を結んでいた名金線のバスに使われていた車両だった。名金線は、当時日本一の長距離路線バスであり、10時間にもおよぶ長時間の運行であった。のちに路線は、南北に分断され、国鉄分割民営化後は、南側はJR東海バス、北側は西日本JRバスが運行していた。国鉄・JRバスの元祖長距離路線で使われていたバスだとは感慨深いものだった。▲特徴ある帝国ボディの後部を見る。塗装は国鉄バスの新塗装に似ているが国鉄バスではブルーの帯部がグリーンになっている。長距離用らしく、窓はメトロ窓、車内もリクライニングシートだったが固定されていた。冷房もあるが使用されていなかった。
▲中部天竜駅前から少し行ったところに、屋根付きの共益バス乗り場があった。もう1台のバスは、共益の自動車整備工場に置かれているのが車内から見えた。こちらは、下オレンジ、上部は白と、当バスとは異なる塗装だった。
中部天竜を出たバスは、すぐに赤い鉄橋で天竜川を渡る。中部大橋と言い、これが中部天竜の名の由来ともなった(ただし読みは“なかべ”)。橋の中央には、しっかり2本のレールが敷かれている。実は、佐久間ダムの建設資材を運ぶため、中部天竜駅から天竜川の対岸に引込線を引き、そこからダムへ運ばれた。橋を渡ると中部の集落があり、つづら折りの坂道に掛かる。途中には、素掘りのトンネルもあって、秘境感も増してくると、佐久間ダムはもう少しだ。 中部大橋に残る、佐久間ダム建設時の引込線跡▲
◀バス時刻表、中部天竜~佐久間ダム7往復、佐久間~佐久間ダム1往復、これが共益バスのすべてだった。
佐久間ダムの建設により、天竜川左岸を走っていた飯田線の佐久間~大嵐18kmの大部分がダム湖に水没するため、路線変更が行われた。付け替えルートは、秋葉街道、水窪を経由、峯トンネル(3619m)、大原トンネル(5063m)の二つの長大トンネルを掘削し、中央構造線と断層地帯を抜ける難工事だった。昭和30年11月に路線変更され、豊根口、天龍山室、白神の旧線上の3駅が廃止になり、新線には、相月、城西、向市場、水窪の4駅が開業した。新線との合流地点の大嵐は構内配線の変更が行われ、また佐久間駅は路線変更に合わせて移転した。水没区間は、佐久間湖の渇水期に湖面から現れることもあり、トンネルポータルなどが見られると言う。▲中部天竜駅前に並ぶ、国鉄バス新旧塗装の2台。行き先の西鹿島とは、遠州鉄道の終点で、天竜浜名湖鉄道の乗換駅の西鹿島のこと。かつて中部天竜と遠江二股を結ぶ国鉄佐久間線が建設着工されていたが、途中で中止された。この路線は、ほぼそのルートをトレースしている。現在では国鉄バスは撤退し、遠州鉄道バスが西鹿島と水窪を結んでいる。
バスは藤本哲男さまの独壇場かと思っていたら、総本家青信号特派員さまもそうでしたか。いやお見逸れして大変失礼を申し上げました。小生は残念ながらバスにはさしたる興味を有しませんが、かつてレイル「私鉄紀行」をシコシコやっていたころ、参考にとコピーしていた「全国乗合バス事業者要覧」から昭和43年度の数値を拾うと、所有バス(路線用に限る)が2両だけという事業者は結構多く、13事業者あり、お馴染みの加悦鉄道、北丹鉄道、同和鉱業も2両です。ただし貸切バスはこの数値に含まれていません。なお所有1両というのも2事業者あって、岩城村(愛媛県)、鬼ヶ島観光自動車(香川県)がそうでした。
yuguchiさま
はい、昭和50、60年代は、藤本さんとともに、バスに熱を上げていました。ちょうど、ポスト蒸機&京都市電のテーマを探している時に、バスに行き着きました。当時は、鉄道と比べて、バス情報は極めて少なく、自分で探し出す楽しさがありましたね。私の見た要覧は、昭和57年のため、差異があると思いますが、昭和40年代は、こんなに多かったのですか。お書きの加悦鉄道バスは、名前を変えて貸切事業を継続していますし、北丹バスは、京都交通と全く同じ塗装で鉄道線と平行した路線で使われていましたが、鉄道線の廃止と同時に廃業しました。私は最小でも2台と思っていましたが、予備車なしの1両だけの事業者があったとは驚きでした。情報、ありがどうございました。
本記事の共益バスをカラーで撮っていたはずと、ずっと気になっていました。記事作成後、7年にして、ようやくネガを発見、その姿をカラーでお見せします。佐久間ダムバス停前の「浜松22か・691」で、モノクロと同じ位置からですが、グリーンとグレーの帯を巻いた、なかなか粋な塗装です。