駅を旅する 〈6〉

飯塚

筑豊本線には、飯塚、新飯塚と二つの駅がある。

新飯塚のほうが、飯塚の官庁街、繁華街に近く、乗降客数はずっと多い。また西鉄の飯塚バスセンターの最寄りでもあり、筑豊訪問の常宿としていた八木山ユースへ行くのは、新飯塚で降りて、遠賀川を越えてバスセンターへ行ったものだ。ただ、歴史的にも、運輸上においても、飯塚が鉄道としての要衝であった。事実、特急「みどり」(のちに「いそかぜ」「かもめ」と名称は変化していく)は、飯塚のみの停車だった。

飯塚のシンボルは、駅の跨線橋から見えるボタ山だ。筑豊富士とも呼ばれる形の良い旧住友鉱業忠隈炭鉱の4つのボタ山だったが、列車と絡めて撮ることは叶わなかった。いまは自然に還り、草木が茂って、ふつうの山と違いはない。

飯塚IMG_0048sy▲本屋側の1番ホームに到着する、原田発若松行き744レ、C5511〔若〕。客車列車のほとんどは原田発で冷水峠越えをして飯塚に到着した。左は若松発上穂波行き739レ、D5145〔直〕牽引。筑豊のナメクジは、あとは42号機で、2両だけという比較的珍しい存在だった。(昭和43年)

飯塚IMG_0088sysy▲詰襟学生服の高校生が待つ2番ホームに到着する、門司港発原田行き1735レ、C5519〔若〕。背後にD51の牽く貨物列車が待機する。(昭和44年)

飯塚IMG_0049sy 飯塚IMG_0050sy▲下り急行「天草」が飯塚を発車する(上)。「天草」は昭和31年改正で京都~熊本間の急行として誕生し、昭和36年改正から筑豊本線経由に変更された。この時期、九州内の牽引機は、鳥栖区のDD51だったが、冷水峠の急勾配区間がある直方~鳥栖間には、後補機としてD60が逆向連結された(下)。客車編成の1両目には指定席のスハ44、2両目はオロネ10が連結されている。なお、関西~九州の夜行急行は、夜間時間帯が多いことから食堂車の連結は省略されていた。「天草」は、伝統の長距離急行として走り続けたが、昭和50年に廃止された。(昭和43年)

2 thoughts on “駅を旅する 〈6〉

  1. 単なる鉄道撮影旅行でなく、いろいろと社会勉強されていることに頭が下がります。飯塚と新飯塚の関係などもよくわかりました。ボタ山も風化して単なる山に見えるとのことですが、一度じっくりと見てみたいものです。筑豊本線に常宿をお持ちだったとのことでその熱心さがよくわかります。そういえば総本家さんが趣味誌に掲載された近くの室木線のレポートも見事でした。急行「天草」は私も昭和43年4月に台湾の帰りですが同じようにDD51牽引の逆向きの後補機D60の姿をとらえています。その5年前ですが始めての九州撮影旅行の帰りに熊本発上り208列車京都行き急行「天草」に乗車しております。この時のことを日誌風に記録しております。

    4月3日夕方18時8分発の急行「天草」の8号車ナハ111に乗車、9号車はナハフ111で軽量客車のトップナンバーが揃っています。C11が客車を出してきてホームにつけ、その後牽引機の到着でC59124です。みずほに使っていた(3月28日のこと)門鉄デフ装備機です。ボーと汽笛をあげ熊本をあとにしました。鳥栖からはC57にバトンを渡し、原田から筑豊本線に入り、汽笛が二つ聞こえています。重連のようです。下りになり、おそらくD60であったろうと思われる補機をはずしました。門司で見たのですが、この時の本務機はC579でした。門司では「高千穂」に「天草」の先頭の飯塚からの1両を連結し、EF3012で関門トンネルに向かいました。(上りのみ飯塚⇒東京の客車があったようです) 「天草」はEF302でした。下関からは再び蒸機で山陽路を(広島まで)走り、定刻三宮に到着しました。
    こんな記録が汚い字で今でも手元に残っています。九州周遊券は大阪から16日間2等学割で3570円(1963年9月)でした。

    • 準特急さま
      コメント、ありがとうございます。
      「天草」の乗車記、楽しく拝見しました。ナハフ111、C59124、C579とナンバーを見ると、おもわず実車を思い浮かべました。まさにその時代にワープした気分になりました。
      40年以上の九州のローカルネタを、お互いに共有できるのは、鉄道趣味の醍醐味だと思います。
      ところで、「天草」と同じ関西~九州の夜行列車群の中に、その名もズバリ「筑豊」という急行があったことが分かりました。もちろん定期列車ではなく、年末年始、盆時期の臨時ですが、昭和39年年末に大阪~飯塚間として設定、なんと夜行気動車でした。想像するに、直方区の修学旅行専用「とびうめ」用のキハ58使用だったのかも知れません。翌40年盆時期には、名古屋~飯塚間に延長され、客車編成となります。その後は新大阪(大阪)~飯塚(佐賀)となり、昭和43年年末年始まで存続したようです。いずれも、日豊本線への列車と併結ですが、その名のとおり筑豊本線経由でした。

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