吉松
人吉から山線を越えると、吉松。ここも運転上の要衝駅である。人吉と違うのは、町の規模はうんと小さいが、その分、機関区は広々していて、背後は一面の田んぼが広がっていた。矢岳越えを控えて、重装備のD51が出入りしたかと思うと、吉都線C55・C57や山野線C56も姿を見せる、出入りの機関車は変化に富んでいた。
▲夏の終わりの午後、C55の熱気も加わり、ホームは暑そうに見えるが、ベンチの女性はいたって楽しそう。吉松まで来ると、さすがにローカル線ムードあふれる雰囲気だった(昭和45年)。
▲九州でのC56は、この当時、山野線の貨物を牽く吉松区の2両と、指宿枕崎線の貨物を牽く鹿児島区の2両のみだった。C56は1~90号は南方戦地へ送られているので、写真の91号は、国内のトップナンバー機に当たる(昭和45年)。
▲機関区で静かに次の仕業を待つD51687〔人〕、敦賀式集煙装置に鹿児島工場でアレンジした人吉区独特の集煙装置を付けている。重油タンクも、ボイラー上だけでなく、助士側ランボードにも載せた、重装備ぶり。ロッドも降りて、その迫力がいっそう増した(昭和42年)。
▲門司港から一昼夜走り抜いた夜行鈍行1121レは、吉松に9時11分に到着、ここから向きが変わって、終点の都城へ向けて最後の行程に入る。牽引機もC5526〔吉〕になった。停車時間はわずか、機関士は確認に忙しい(昭和45年)。
▲人吉に向けての山線は、吉松を発車すると、いきなりの上り勾配、並行する吉都線とは、こんなに差が付いてしまう。人吉行き842レ、D51687〔人〕+オハユニ61+貨車+D51890〔人〕(昭和44年)。
▲広い吉松駅構内で入換するC56の横を、C5533〔吉〕の牽く891レが発車していく。C55は吉都線、肥薩線では、貨物の牽引も行っていた(昭和44年)。
▲小雨のなか、吉松から少し隼人寄りに歩いて、茅葺き屋根の前で、山野線の貨物をとらえる。山野線は、ひと駅先の栗野から分岐していた(昭和45年)
▲吉松の締めくくりも夜景で。夜行鈍行1122レは、吉松からもよく乗った。21時49発だから、ゆっくり夜間撮影が楽しめる。ただ、前述のように、町はごく小さな規模だから、夕食には苦労したことを覚えている(昭和46年)
▲久しぶりの吉松へは、隼人から乗った「はやとの風」利用だった。ところが、接続する「しんぺい」とはわずか2分の接続、久しぶりの余韻に浸る余裕は全くなく、ホーム移動だけで、吉松を去ることになった(平成22年)。
学生時代、毎年春休みは九州旅行と決めていました。特に南九州は暖かく、菜の花の真っ盛りで楽しい思い出が一杯です。
同級生のK君といっしょに人吉へ泊った朝、宿の人に鹿児島へ下りるというと「あの汽車はやめなさい。煙を吐きますよ!」という声を無視して「煙を吐く汽車」に乗りました。真幸信号所付近を走っているとき、車掌が来て「あの山が韓国岳、あれが吉都線」と教えてくれたのも時代の思い出です。
話は変わり、今年(2013年)6月に、家内と格安九州旅行に行ったとき、バスが栗野駅を通過しました。広い構内は草が生え、栗野線なきかつてのターミナル駅は、単なるローカル駅となっていました。
元流線型のC55や、カラー写真左端に見える草むす構内に昔を偲んでおります。
米手作市さま
押し詰まったこの時期に、わざわざのコメント、ありがとうございました。
私も学生時代は、春はだいたい九州に行っていました。北九州ではまだ寒く、ときどき雪も降ったのに、宮崎や鹿児島まで来ると、暖かくて、同じ九州でもずいぶん違うと思いました。以前の米手さんのコメントで“匂い”のある写真について書かれていましたが、書いていて、南九州の春の匂いを思い出しました。
吉松は、いま単なる乗換駅になってしまい、機関区があった時代を思い出す術はありませんでした。ご指摘どおり、カラーの左端は機関区跡ですが、一面の空き地でした。
懐かしい蒸機時代の数々のシーン、有難うございます。最近の趣味誌では動態保存機によるイベント列車が幅を利かせ、爺鉄には多少うんざりしている中で、総本家さんの毎度の温かみのある普段着の駅風景は一服の清涼剤です。吉松も仲間3人で駅前の「みなとや」という旅館に泊り、夜景も試みました。翌日、「みなとや」の女将さんと記念撮影もしておりますが、その後は訪問はしておりません。総本家さんのようないい写真は皆無ですが、私の方が歳をくっている分、C51も撮影しております。その分、先に逝きますが。
準特急さま
コメント、ありがとうございます。吉松のC51、よ~く知っていますよ。「鉄道ファン」に載ったC5178ですね。化粧煙突、形式入りナンバープレートと、完璧なC51でした。私はパイプ煙突の梅小路124号、271号しか撮ってなく、鉄道ファンを見て、羨ましく思ったものでした。中学2年生の時で、この撮影者が準特急さんだったとは、露知らずの時代です。
ぜひ、デジ青で、その当時の写真を発表してください。
吉松駅前にC55 52が保存してあり、2013年7月4日に見に行ってきました。
ここで脱線しますが、7月4日といえば準特急さんは北海道小樽湾で海水浴をされていませんでしたか?
C55はスポーク動輪で、最も好きなカマですが、なかでも52と57号機には特別な思い入れがあり、模型まで買ってしまいました。
52号機に乗ったりまわりをうろうろして3時間近くいましたが、近くで道路工事をしている人がテンダー後ろにある大きなテーブルで昼食をしにきただけで、列車から降りる人も現地の人ばかりで観光客は皆無でした。
吉松といえば肥薩線より吉都線のほうが好きです。吉都線は全通100周年を迎え、記念に歌謡曲(ふたりの吉都線)まで出ましたが、輸送密度がJR九州で最低だそうです。最低でもかまいません。廃線にならないよう祈るばかりです。
昔、天然記念物のようなスエ31 17という救援車がいた吉松が雰囲気良く残っていってほしいものです。
あけましておめでとうございます。 いつも会の仕事お疲れ様です。
昨年夏、小樽市総合博物館の保存車両を見学した後、あまりに暑いので張碓海岸で泳いでいました。と言っても北海道の夕暮れは肌寒く、あれ以来血圧が高止まりしております。そうですか、その日に吉松に居たのですか。何度も言う様ですがかつてデジ青に発表された井原様の野田線3210が強く印象に残っております。今後もあのようなカラー傑作を心待ちにしております。
やはり泳いでいらっしゃいましたか。血圧のみならず血糖値にもご注意ください。肝臓の数値はいかがでしょうか。それにしても張碓までどうやって行かれたのでしょう。
東武野田線は、藤本さんに「野田線はエエで~最高やで~」と云われ、私は関東の私鉄など全く知らず無知だったので早速夜行バス(ドリーム)で行ったのですが、あまりの凄さに腰を抜かし、その日の新幹線で泣いて帰ったのです。藤本さんに騙されたようなものですが、過分な評価をいただき戸惑っております。
ちょっと待って下さい!
二人で盛り上がっていますが、どうして吉松にいた人が小樽で泳ぐ人を知ることができるのですか?
これはアリバイと言うことではありませんか?このトリックが分かれば当会会員の有栖川有栖氏に高く売りつけようではありませんか!
おしえて!井原さん、準特急さん!
訳をバラすと準特急さんに迷惑がかかるので云えませんが、文中「小樽湾」は誤りで「石狩湾」が正です。訂正してお詫びいたします。それよりも、準特急さんがどうやって張碓まで行けたのかが謎です。
守秘義務、コンプライアンスというヤツですか!
何はともあれ、鉄道サスペンスの材料はたっぷりあると言うことですな?
張碓までどうやって行かれたのかは謎ですが、恐らく準特急さんはあまりの暑さのため、誰もいないのをいいことに海に飛び込んで海中から撮影したら一石二鳥だと閃いて実行されたのだと思われます。ところが昔から「××の冷や水」というように北海道の海は内地の人にはちょっときつかったのかもしれません。