40年前の出雲路紀行 一畑電鉄と木次線

 米手作市さんの「50年ぶりの木次線」を拝見して、私の場合は40年前ですが一畑電鉄を訪れて、その帰りに木次線を経由したことがありました。その時の写真がありますので当時のことを思い出しながらご披露したいと思います。時は1973年12月10日から11日とネガカバーに日付が書かれてあります。ところがなぜ12月10日、11日に行ったのかよくわかりません。おぼろげながらゼミ旅行で玉造温泉に行ったような気がしているのです。しかし、定かではありません。このときに一畑電鉄の一畑口から一畑薬師のふもとでかつて一畑駅があったところまでバスで行ったのです。ところで西村さんも「追憶の旅(その2)」で一畑電鉄川跡駅と一畑廃駅の写真が投稿されています。どうも西村さんと一緒に行ったようです。川跡駅での写真といい、一畑廃駅でのバスを写した写真もほとんど同じものでありました。

 MN01804-一畑電鉄

 上の写真は大社方面から来た電車が着いて、出雲市か松江方面へ乗り換える乗客が駅構内の踏切を渡っているところです。西村さんの投稿されている内容を見ても同じような光景のようです。

さて、川跡駅ですがホームから見た全景は下の写真のようになります。

 MN01815-一畑電鉄

一畑電鉄川跡駅線路配置図 数枚の写真から40年前の川跡駅の線路配置図を描いてみました。それが右の図のようになります。グーグルなどの地図で見ると線路配置は40年前といまも変わっていないようです。ただし、転轍機はスプリング式又は手動から電気式に変わっているようです。さて川跡駅での電車の系統ですが、当時のことはよくわかりませんが、写真で見るとこんな感じでしょうか。

 一畑電鉄-01

 大社前から来た普通電車に急行の看板がつけられて、今度は急行電車で大社前に行くようです。

 MN01810-一畑電鉄

  一畑電鉄-02

 一畑電鉄-03

MN01814-一畑電鉄

左側にある木立の影に出雲市行急行電車が隠れようとしています。出雲大社行の電車に架線柱が少しかぶっていますが、あまり気になりません。架線柱は軽便鉄道時代のレールで作られているからで西村さんの投稿された写真を見ると、今も同じ架線柱であることがわかります。ところで、踏切の左側にいる人物は誰でしょうか。

 

一畑電鉄-04

 

 川跡駅から当時の平田市駅(現雲州平田駅)を訪れています。それでは当時の車両たちの写真を。

 MN01819-一畑電鉄

 映画に出演した有名なデハニ52(デハニ50形)の現役時代の姿。

MN01824-一畑電鉄 デハ23で3扉のデハ1形を2扉に改造してクロスシートに改造した電車で、扉は手動というものです。車体の色はオレンジに白帯

 MN01826-一畑電鉄

 クハ162で西武から来た電車でデハ60形といつも一緒に。 そして、この電車の扉は自動扉です。車体の色はクリームに青帯

 MN01820-一畑電鉄

 ED221で貨物輸送は1973年4月に廃止されていたので、訪れた頃は車庫の片隅に置かれていました。元は信濃鉄道(現大糸線松本-信濃大町)の機関車で流転の末に一畑電鉄へ、そして貨物廃止後は弘南鉄道に譲渡されて、現在は大鰐線で除雪用などとして働いています。1926年(大正15年)にアメリカから輸入されたもので来年で88歳となります。

そして、次はスイッチバックの駅である一畑口駅へ。これより先の廃駅となった一畑駅へはバスで行きました。

MN01903-一畑電鉄

写真をよく見ると一畑自動車道入口という看板が見えます。一畑薬師の近くまで自動車で行く道があったことがわかります。かつて鉄道があってバスに代わったとしてもその終点がどのようなところかわかるような気がします。

一畑電鉄-05

 

次に下の写真は宍道湖と電車を一緒に撮ったもので、地図で撮影した場所を調べてみると津ノ森駅から西に少し行ったところにある踏切のところから東の方向にレンズを向けたと思います。拡大してみると場内信号が写っていました。電車の右側にある小さな森のところには神社があるようです。 

3-MN01911-一畑電鉄

さて、ネガの順番を見てみると、帰りは木次線を経由したようです。備後落合まで乗って、この後はどうも芸備線で備中神代から新見へ行ったようです。そこからは姫新線で姫路へ、そして大阪へ帰ったような記憶があります。当時、世間を騒がした「ヒバゴン」という未確認動物が出没したという比婆山が備後落合の西方にあり、なぜか中国地方の山間部は興味をそそるところです。そういうことで備後落合から鉄道で中国山地の中心部を西から東へ旅をしたのです。ただ、列車に乗っているだけでしたが、窓から景色をみたり、ウトウトしたりしながら姫路までの旅を楽しんだことを思い出します。写真は木次線の列車に乗って、備後落合までの間に駅に停車をするたびに撮ったものです。

 MN01912-木次線-01

木次駅です。駅の向うでは保線作業が行われています。のどかな昼下がりの駅という感じです。 

MN01913-木次線

同じく木次駅ホーム上の売店。手打出雲そばの看板があります。どのような編成だったかわかりません。前の写真では先頭車2両はキハ58、28?で最後部から3両はキハ52?。そして、急行か普通なのかどうもよくわかりません。

MN01914-木次線 出雲三成駅での交換です。キハ55です。普通列車なのでしょうか。

 MN01915-木次線

出雲坂根駅では停車時間が長いので乗客は延命水のところへ。 

MN01917-木次線

交換の列車が来ました。車掌さんは「乗客専務」の腕章をしています。今はあまり見かけなくなりましたが、なかなか、かっこええものでした。 

MN01916-木次線

出雲坂根駅にあった案内板です。この案内板をよく見ると駅から三井野原まで登っていくと長いトンネルがあるところに「平家」と書いてあり、その下に「貝の化石」と書かれています。山深いので平家の落武者がここに逃れてきたのかもしれません。そして、大昔(数万年前?)はきっと海だったのでしょう。

 MN01920-木次線

 上の写真はたぶん備後落合と思うにですがよくわかりません。急行と表示しているので、ひょっとしたら木次線内は普通列車で備後落合から分離して一部が急行になったのか、どうもよくわかりません。 

MN01919-木次線

そして、DE10が引く二軸貨車が2両です。その二軸貨車も今はほとんど姿を消しました。ところで、木次線のなかで特に出雲横田と備後落合の区間は1日3往復でさらに曜日によって運休する列車があるようです。さて、木次線ですが夜行急行列車も走っていた鉄道でしたが、いまはさびしい限りです。考えてみると車窓の景色が良いところはほとんどが赤字ローカル線ではないでしょうか。旅の楽しみのひとつとして移動を五感で感じることがあるのではと思います。その点において「奥出雲あろち号」などはもってこいの列車ではないかと思います。目的地へ行くには「そろり、そろりと参ろうと存じる」がよいと感じる40年前の出雲路の旅でした。

それでは皆さんよいお年を。

 

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