人吉
人吉は、肥薩線の川線・山線の中継地点であり、要衝の駅として賑わっており、駅裏には機関区もあった。鉄道写真の立場から言えば、矢岳越えの写真を撮るための前線基地でもあった。朝早くから、とくにいい時間帯に通過する夜行1121列車を大畑で撮ろうとすると、どうしても人吉に泊まり、一番列車で向かわなければならない。しかし、人吉にユースはないため、奮発して国民宿舎に泊まった(と言っても一回だけ)。朝早く、国民宿舎で作ってもらった握り飯を抱えながら、まだ暗いなかを駅に向かったものだ。
▲人吉駅の代表的なシーンは、矢岳越えに挑む列車。上は昭和42年の873レ、D51170〔人〕+オハフ61433+貨車+D51、下は昭和45年の4589レ、D51545〔人〕+スハフ3244+貨車+D511058〔人〕、どちらも客車1両に貨車多数の混合列車で、3年経過しても何ら変わっていなかった。下のスハフ32は、この頃珍しいダブルルーフ、トンネル区間に備えてベンチレータが撤去してある。
▲列車から眺めた人吉機関区、駅裏の、裏山が迫ったところに、石造りの機関庫・給水塔があった。これらは、JR九州に承継され、いまも健在なのは嬉しい。近代化産業遺産にも指定されている。(昭和45年)。
▲南九州の蒸機の魅力のひとつは、砲金製の区名板を持っていることだ。鉄板にペンキ書きではなく、「延」「宮」「吉」「鹿」と燦然と輝く区名板に、蒸機の威厳と気品を感じたものだ。なかでも、人吉区は「人」、なにやら暗示的な文字が、よりいっそう魅力的に映る(昭和46年)。
▲人吉は、朝早くから夜遅くまで、滞在したものだ。人吉を去るのは、決まって夜行鈍行の1122列車、人吉の発車が23時50分だから、時間はたっぷりある。足は自然と区へ向かい、夜間撮影タイムとなった。要衝駅だけに、夜間でも入換などで、構内は活発だった(昭和46年)。
人吉、と言えば思い出すのはHFさん、人吉在住の鉄道写真家だった。私が中学・高校のころ、鉄道ピクトリアルの写真コンクールの常連だった。その活躍舞台は、大畑を中心とした矢岳越えで、地元ならではのシーンを押さえられていた。映画館の映写技師をされていて、仕事の合間に自転車で大畑へ行くと書かれていた。カメラも、同時のEEカメラ、少し前の言葉で言えばバカチョンカメラしか持っていなかった。有り体に言えば、決してヒマと金に恵まれた方ではなかった。それでいて、感動的な写真を撮るとは、地元を大事にすること、写真はカメラで撮るものではない、を実地に教えてもらった。今でも、時折、投稿を見かけるが、かなりの高齢と思うが、生涯現役を貫く姿も教えられる。