サラリーマン時代、世話になった出版社の方から久しぶりに電話があった。北九州市に在住されていた高名な鉄道趣味人が、昨年、亡くなられ、その一周忌に合わせて、故人を偲ぶ平成筑豊鉄道の貸切列車が運転され、それに乗車したと言う。
筑豊地方の現状も聞かせてもらったところ、初耳だったのは、直方駅が新しく建て替えられたことだった。古風な駅舎は、水戸岡ナイズされた瓦屋根を持つシックな駅舎に変わったとのことだ。調べると、一昨年にリニューアルされたようだ。
久しく筑豊地方へも訪れていないが、その間に、駅もどんどん新しくなっていく。車両のようにニュースになりにくいから、駅は“いつの間にか”消え去ることが多い。改めて時代の移り変わりを感じたものだ。
近くの門司港や折尾も駅舎の工事に入っている。重文指定の門司港は、大掛かりな補修工事のため、しばらくその姿を見ることができない。折尾では、鹿児島本線、筑豊本線の共同駅を造る大規模な工事が始まり、さくら色に塗られた、下見板張りの駅舎もついに解体されてしまった。
駅は、鉄道旅行の出発点であり、終着点でもある。そして、格好の写真撮影の場でもあった。私も、数知れないほどの駅に乗り降りして、写真を撮ってきた。
ところが、昨今、“駅を利用しない、鉄道に乗らない、鉄道写真愛好家”が増殖している。鉄道写真の原点たる駅の存在が忘れられている。
▲かつての直方駅舎。正面ペディメントを支える柱にエンタシス風の膨らみがある。初代の博多駅舎を移築したものとの説が一部であったが、解体の際の現地調査で、木材の転用の痕跡がないことから、その説は否定されてしまった。
前置きが長くなったが、直方駅改築のニュースを聞いて、九州の駅の思い出を写真とともに語ってみたくなった。よく本にあるような、特徴のある名物駅の紹介ではなく、あくまで、駅で写した当時の車両写真である。
ごく最近、北九州育ちのKH生さんからも、当地の懐かしい話を聞かせてもらい、なおのこと、その思いが強くなった。
いま痛切に感じているのは、一日一本のため、何時間も歩いて写した、大自然の中の写真より、駅での待ち時間にチョイと写した写真が、はるかに、時代を雄弁に語り、記録的価値が高いと思っている。
▲日本最初の立体交差駅として誕生した折尾駅。いま付近の地形までも変えてしまうほどの大規模な工事が始まっている。大正5年建築の洋風駅舎も、保存運動もむなしく、解体されてしまった。
お早うございます。
筑豊地区の駅設備インフラは、石炭輸送盛期であった、大正や戦前のものが多かったですが、昭和の記憶と共に、徐々に姿を消しています。
八幡から鹿児島本線折尾までの区間は、九州の産業動脈であった時代の面影が薄れて、石炭も製鉄も無い、製鉄は最盛時の何分の一でしょう。産業の世紀の去ったことを通る度に痛感いたします。
しかし九州は博多が当分元気なので、まだ明るい材料は多く、福岡市圏からの輸送や、意識した1次や3次産業を展開して行けば、九州の火が消えるようなことは無いと思います。
初代九鉄時代の駅舎は、本当に残存少なくなりました。私の高校時代は日豊線の殆どが、九州鉄道時代と豊州鉄道時代のもので、行橋や苅田といった駅の建て変わる前の姿を撮っております。
K.H.生さま
コメント、ありがとうございます。また、先日はお疲れ様でした。
九州鉄道時代の駅舎については、本編でも触れました、小倉高校の先輩が、「鉄道ファン」にも書かれています。記事の書かれた昭和42年で、九鉄の初代駅舎が残っていたのは、日豊本線の城野、下曽根、苅田の3駅だけでした。今は、すべて新築されていますから、九鉄初代駅舎はもう残っていないのですね。門司港、折尾も、古そうに見えますが、大正期の二代目、三代目なのですね。
以前の行橋駅舎も、写真には撮っていませんが、古かったことだけは、感覚的に覚えています。また、その写真を見せてください。