1975年(昭和50年)の思い出〜北九州の夏

 西鉄北九州線の118型の記事から昔の北九州市の鉄道運輸が活発で、町に人も電車も溢れていた頃が懐かしくなりましたので、昭和50年に高校に上がった年の写真を出してきました。撮影は熱い8月のある日です。場所は鹿児島本線の枝光付近の複々線区間です。

ED72の牽く貨物列車

 年上の人なら記憶もありますが、この年の3月10日に山陽新幹線が、博多まで開業。九州は福岡県が新幹線時代を迎えました。
時代的には石油ショックの後で、緩慢な経済の時代でしたが、新型車両が北部九州に投入され、新しい息吹の一方、49年で筑豊と山陰線西部のSLは消えて行き、3月22日の南九州のサヨナラ運転で完全に蒸気の時代は決別した年でした。

ED76若番機が牽く石灰石列車

 この撮影場所は、鹿児島本線枝光駅付近の複々線区間で、並走して西鉄北九州線も専用軌道で走っており、九州で一番線路の多い区間でした。

西鉄北九州線の古豪100型 108

 現在はスペースワールド駅が出来た際に、電車線が移動して、この区間はこのような「鉄都八幡」を象徴するようなダイナミズムはありません。

421系初期型低運転台車が先頭の8両編成

 九州の交流電化は、昭和36年に電車と電気機関車が走り始めて、赤いロコと電車の登場は常磐や東北、北陸地区でも始まり、新時代の幕開けの象徴のようでした。登場から14年経ち、初期型車には老朽も現れ始めた頃ですが、37年に北九州市が7番目の政令指定都市として発足。公害都市と呼ばれながらも、石炭エネルギーから石油に転換後も、まだこの頃は「鉄は国家なり」の言葉のように厳然として、北九州市のシンボルでした。

高速化改造されて黄色ナンバーになったED73 1009
博多「あさかぜ」と高速貨物に充当されていた。SGが無いからである。

 北陸のED70や東北のED71に較べて、正面が「く」の字型の72、73の外見はスマートでしたが、76型が九州の定番になると運用区間は鹿児島本線の北部区間に限られて、珍しい存在だったことは後から気付きます。

この年の3月改正で九州に冷房付きの一般電車が走り出し夏は好評であった。415系

 いわゆる近郊型電車の冷房化は、国鉄時代は五月雨式に新車投入線区と、運行もまちまちで、大都会と田舎の差別が少なくて、運が良ければ冷房車に乗れるようなものでした。しかしこの頃、経営の安定していた西鉄バスは、翌年くらいに全国トップでバスの全車冷房化を遂げて、全国に名を轟かせました。

同じく快速と急行運用に入った九州専用のキハ66・67型。電車の117系の先陣を切った転換クロス車の登場は大サービスだったが、この年は初期故障に泣かされた。

 この後も九州でずっと使われ続けたキハ66・67もやっと引退しました。自分にとって昭和50年は沖縄海洋博よりも新幹線開業で、山陽線に特急、急行が走らなくなった年として今でも記憶に残っています。そんな九州にたまに帰って来ると、寂しさばかり覚える年齢になりました。

 1975年(昭和50年)の思い出〜北九州の夏」への5件のフィードバック

  1. 夏休み、73年は同級生と九州へ、74年は九州から山陰西部へ一人旅をした事を思い出しました。当時こちらの中学の修学旅行は九州でしたが、SL好きの友人に誘われて、73年に初めての撮影旅行でまた九州へ行ったのが始まりで、ずるずるとこの世界に入ったような。
    74年は初めての一人旅、当時高校に学割を請求するのに、日程や同行者の記入などとても面倒で申請せず、一般大人料金の旅行となり、旅先でお会いした学割が自由に使える大学生がうらやましかったものです。
    フィルム代、現像焼付代もばかにならず、EC,ELDC,DLの写真はほとんど撮っていなかったような気がします。
    キハ66,67が75年からということは、筑豊ではキハ10系がやたらと多かった時代でしょうか。あの頃421系は小郡まで行っていましたよね。
    懐かしいですね。ありがとうございました。

  2. 77-タツ様
    時代は私の方が古いようですが何か自分と似たところを感じました。私も修学旅行は九州でその翌年に再度単独で撮影に出向いております。貧乏学生でしたので白黒富士フイルムで蒸機中心で撮っていましたが、どうでもええような車両はもう一つハーフサイズカメラで撮っていました。このハーフで撮った中には今になってみるとお宝も散在しております。単独九州旅行の初日の1963(昭和38)年3月28日、下関で小郡発の421系雑餉隈行きに乗る時に後ろからついでに撮った写真を貼り付けます。当時の糊で貼ったアルバムの文章をそのまま載せると「4121M小郡発雑餉隈行 153系500と同様に窓が高くなっているが、私はこの電車の先頭車に乘った 乗車率は150%くらいだった クハ421-28 門ミフ」とある。大きな風呂敷を持った人などが見られるが、九州へは優等列車が多く普通列車が少ない上に421系4連では厳しい。左に見える客車はC59191が牽引して終着下関に到着した寝台急行「音戸」である。雑餉隈は1966(昭和41)年11月に南福岡と改称されているのでこの難読駅の記録も貴重と思っている。尚、西鉄にも同じ名前の駅がある。

  3. 準特急様
    私も当時自分のカメラはなく、父親から借りたパールⅡとハーフカメラでした。ハーフカメラは36×2枚は撮れるので、現在と比べ物にならないですが、喜ばしかったです。風が吹くと飛んでしまいそうなちゃちな三脚にパールⅡを載せ、レリーズを使わず連続撮影(連写とは言えず)もしたものです。
    以前勤めていた会社の福岡赴任時代の事務所が、井相田(字の通り田んぼが多かった)で、近くの繁華街が雑餉隈でした。何度か宴会もしたのですが、場所は思い出すことができません。
    しょうもない話で、失礼しました。

  4. ということで、酔っ払いのタツ先輩には頭が上がらないので、雑餉隈駅当時のままだった昭和55年のミフ駅を出しておきましょう。
    先輩と仲の良かった。ハゲK先輩宅に遊びに行った春休みの日の記憶です。

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