【94853】 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈1〉

2018年も3ヵ月近くが経ちました。よく考えたら、来年5月から新しい元号が施行され、「平成」という時代も、あと一年余りなんですね。我々の世代が、本欄で思い出を綴っている「昭和」も、来年になると、二世代前の出来事になってしまいます。昭和の時代、鉄道趣味の面では確かに面白い時代だったことに違いはありません。しかし、昭和の賛美だけに終始していると、来年、新しい元号になると、平成は“失われた時代”になりかねません。
いまの現役会員や20歳代は、すべて平成生まれです。昭和は生まれる前の時代であり、昭和40年代に20歳代だった我々の時代に置き換えると、デジ青で戦前の話を聞いているのと同じで、これでは20歳代にはなかなか理解できないでしょう。別に若い世代に迎合するつもりはないのですが、若い世代から共感が得られる記事も必要だと思いました。
平成の時代も、細く長く鉄道を撮り続けてきた積もりですが、それらの整理、見直しは、ほとんどできていません。平成が終わろうとする今こそ、写真・データの整理を始めなければと思った次第です。これからは、“昭和”も記録しつつ、“平成”も平行しながら、鉄道写真のアーカイブス化を進めて行きたいと願っています。そこで、昭和から平成へと移った直後の記録を順に綴っていこうと思います。
平成に入ってからも、私の撮影はモノクロが中心だった。ただ、カラーも平行しながら撮っていて、最初はカラーネガが中心だったが、徐々にカラーポジでも撮るようになった。カメラは、平成に入ってEOS-10、EOS-55、EOS-1Nと買い換えてきた。前の2機は手許にないが、中古で買った1Nだけは記念に置いてある。価格はボデーだけで12万円ほどと、当時の中古カメラは高価だった。電池がなく今は作動しないが、“カシャ”と言う鋭いシャッター音が忘れられず、時々、空シャッターを切って懐かしんでいた。フィルムカメラを止めて、デジカメに転向するのは、もっと先のことだ。


初回の舞台は、山陰本線保津峡駅、新線に切り替えられる直前の記録。線路を横断して、小さな東屋風の駅舎へ向かい、駅前の吊り橋を渡る、京都に育った人間なら共通の思い出だろう。(以下撮影、すべて平成元年2・3月)。

山陰本線保津峡

平成の時代に入った頃、私は40歳になったばかりで、仕事はムチャクチャ忙しく、終電帰宅、徹夜、休日出勤、何でもアリの、およそ“働き方改革”とは無縁のブラックな毎日だった。したがって、泊まりがけで撮影旅行に行くなど夢の話で、もっぱら貴重な休日に近所へ行く程度だった。逆に言えば、遠くへ行かなかったぶん、地元の記録は、地道に撮っていたことにはなる。
特急列車は181系の「あさしお」で、6往復が運転されていた。綾部までの電化が完成する平成8年までDC特急の活躍が続く。

平成になって、まもなくの平成元年(1989年)3月5日に、山陰本線嵯峨~保津峡~馬堀が非電化のまま、複線の新線に切り替えられた。本線の京都口は、大都市近郊の幹線としては、長らく単線非電化のままだった。山陰本線では、すでに福知山~城崎は電化していたが、乗降数の多い京都口は、蒸機時代と全く変わらないインフラのまま残されていた。国鉄時代の最後になってから、ようやく改良計画が立てられた。

国鉄書体を見よう見まねで書いたような保津峡駅の駅名標。▲▲列車はクロスシートだったから渓谷美がゆっくり堪能できた。保津峡駅の開業は、昭和4年に松尾山信号場として開設され、昭和11年に駅に昇格し、保津峡駅が誕生した。ずっと旅客専用だったが、昭和46年までは、手小荷物の取り扱いをしていたと言う。キハ47が2両の普通列車、昼間の列車はこの程度の編成で足りていた。普通列車のDCは、20系は一掃され、40系気動車に統一されていた。通過する急行「丹後6号」「わかさ」、特急を補完する急行も多く運転されていた。

ホームの東端にある跨線橋からは保津峡を入れて、季節ごとの光景が写せた。以前は跨線橋はなく、京都から来ると、対向列車の発車を待って、直接、線路を横断して駅舎に向かったものだ。雨の日は川霧が出て、幻想的な風景が撮れた。通過する「丹後6号」「わかさ」。対岸へ渡ると、保津峡駅がきれいに俯瞰できた。保津峡は山が迫っているため、陽の射す時間帯が短く、撮りにくい場所だが、駅付近は太陽の方向が開けていて、夕方まで順光で撮ることができた。
普段は閑散とした駅だが、まもなく駅がなくなるとあって訪問客で混み合っていた。現在では、嵯峨野観光鉄道のトロッコ保津峡駅として活用されている。
逆光上に水面がキラキラ輝くなか、上りの列車がゆっくり到着した。保津峡は、京都では、もっとも手近な行楽地だった。DRFC時代も、新入生歓迎会によく行ったところで、あるときはキャンプをしたことも思い出だ。

 

 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈1〉” への2件のコメント

  1. 総本家青信号特派員様
    ドキッとするような出だしですが、間違いなく平成は終わり昭和ははるか彼方に去っていきますね。気が付くとそれだけ人生長いことやってきたということで老い先短いことも理解しているつもりですがいざという時は慌てるでしょうね。私は歳をとったので物覚えが悪くなりましたが、古いことは比較的よく覚えています。だから、新しい歌は歌えないが、懐メロはよく歌えます。鉄道趣味でも懐古的な内容が多くなりがちですが、今も撮り歩いていることは歌よりは鉄道の方が新しいことに興味があるのかなとも思っております。どこの趣味の会でも年寄りが中心で若い人がなかなかのってこないようですが、いろいろ考えてしまいます。しかし、老い先短いので今後も今と同じ調子でやっていこうと開き直っています。
    さて、保津峡ですが、都心から近いにもかかわらず秘境的要素のある駅という点で福知山線の武田尾とよく対比されました。保津峡は早朝の好撮影地馬堀に対して総本家さんおっしゃられるとおり山間部の底のような感じの場所で太陽光線の関係で大抵昼間に行っていたようです。総本家さんは会社勤めの現役時代に激務で遠出ができず近場に集中した時代があったことを始めてうかがいました。その結果、保津峡をよく撮られていたとは皮肉な話ですが懐かしい思い出の場所ですね。いつも多彩な切り口での発表に感心しております。今後も楽しみにしております。

  2. 準特急様
    コメントの御礼が遅れてしまいましたが、ずいぶん大仰なタイトルを掲げてしまいました。要は、鉄道趣味は、あるテーマを深掘りするのも、いいのですが、もう少し、視野を広く持って、客観的に眺めるのも意義のあることと思っています。そういった意味で、昭和の回顧だけでなく、あと一年となった平成を振り返るのも意味のあることだと思いました。書いていますように、平成の始め頃は、とくに仕事で忙しくしていましたので、貴重な休みに、近郊へ撮りに行くのが、唯一の鉄道趣味でした。保津峡はその一例ですが、かえって、近郊の鉄道の変遷を記録できたのかと思っています。「多彩な切り口」については、準特急さんから刺激を受けたことで、感謝しております。

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