“平成”の思い出 鉄道の記憶 〈10〉

地下鉄梅田駅の狭いホームを記録する
大阪市営地下鉄の梅田駅の近くに、幻のトンネルがあると昔からささやかれていました。御堂筋線の梅田駅に隣接して、谷町線が乗り入れて、もうひとつ梅田駅を造る計画があって、一部のトンネルがそのまま残っていると言うものでした。それが、御堂筋線梅田駅の混雑緩和のために活用されることになり、一面二線の幅の狭いホームから、現在見られるような、幅の広い一面二線ホームに改良され、平成元年11月から供用を開始しました。
従来の旧ホームを、南改札口の階段から眺める。大阪の地下鉄に初めて乗った時(かどうかは知らないけれど)、ここから見下ろした、ホームの混雑ぶりを見て、“さすが大都会、大阪”と感じたものだ。

右側の壁が取り払われて、新しい南行きホームが出現する。まだ南行き線路が残っているから、それを埋めたうえに、現在のような広いホームになるのは、もう少し先のことになる。
もともと大阪市営地下鉄の2号線(谷町線)の昭和初期の計画では、梅田駅を二面四線の総合駅として、1号線とともに、方向別のホームを造る壮大な計画だった。つまり、現在の大国町と同じように相互に乗り換えが可能なホーム構造だった。戦時中に、実際トンネル工事が始まったものの、戦争の激化で工事は中止された。戦後、昭和34年になって、建設の特許を受けて工事に入ることになった。
この時点の計画では、南森町から扇町まで行き、梅田方面に向きを変えて、北野・茶屋町から天六へ抜けるコースだった。ところが、このルートだと、東海道線、阪神北大阪線、阪急、国鉄大阪駅と、4つもの鉄道線の直下を通ることになり工費が膨大になること、また総合駅を造った場合の混雑も懸念され、結局コースは、現在の南森町~西天満~東梅田~中崎町~天六となり、駅も曾根崎警察近くの別のところに梅田駅に新たに設けて、本来計画していた梅田駅には立ち寄らないことになった。このコースでは、交差する鉄道は、大阪環状線だけで、工費・工期とも大幅に短縮されることになる。

すでに一部が掘削されていたトンネルは、“幻のトンネル”として残されることになったが、平成の時代に入って、御堂筋線梅田駅の混雑緩和のために活用された。特徴ある照明器具は、新しい駅でも使われている。北急8000系は、地下鉄車両としては、いちばん上質な車両だと思っている。

 

 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈10〉」への4件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様 懐かしい地下鉄梅田駅の狭いホームの写真ありがとうございます。吹き出し口が六角形見たいな配置の冷風吹き出し塔も懐かしく、夏の暑い時は吹き出し口の下で涼んだものです。形状がいいのか周囲にたくさんの人が電車が来るまで涼んでいました。ところで以前、私の「大阪市営地下鉄からOsaka Metroへ」の投稿で幻のトンネルについて少し書いたところ、いつもデジ青を見ていただいている河様からよく知らないので教えていただければというコメントがあり、それに答えようとして調べていく内にわからない所がたくさんあり、まだまとめきれない状態です。とにかく今はオエ70に・・・(客車の青鬼さん、赤鬼さんが怖い~)冗談はさておいて地下鉄の計画は大正末はじまり、建設の起工式は昭和5年1月におこなわれています。昭和8年5月に梅田ー心斎橋間を開業しました。問題の梅田駅については開業当初は仮駅で、さらに昭和11年2月に梅田駅の工事現場で崩落事故を起こしています。このあたりからわけのわからない、なんのこっちゃという感じですが、調べてみると概要がわかってきました。とにかく、紆余曲折があったようです。それと当初の計画では梅田から天六に行くコースですが、中津の駅を今の阪急電鉄本社ビルあたりにして、そこからから天六へ向かったようです。阪神北大阪線に沿って計画したようです。まだ、調べないといけない部分があってまだまだかかりそうです。とりあえずここまでで

    • どですかでん様
      コメント、ありがとうございます。大阪地下鉄の駅の冷風は、私もサラリーマン時代、よく利用しました。とくに、大阪市は、冷房代などケチらずに、ガンガン冷やしてくれましたので、ホント爽快でしたよ。
      はい、いまは、オエ70に心血を注いでいただき、宿題はあとからしてください。大阪地下鉄の路線敷設の構想は、調べると面白いと思いますよ。例に挙げました、2号線(谷町線)は、当初は松屋町筋の地下を走る計画だったのですね。それが、途中で谷町筋に変更されています。また、当初の梅田駅からのルートは、お書きのように、現在の阪急本社前から天六へ抜けるコースでした。これは、当時、いまの阪急本社前は「北野」と呼ばれており、交通結節点でした(阪急の高架後も地上線の北野線が残っていました)。そして、新京阪の天神橋ターミナルのあった天六へ抜けるコースは、当時としては、たいへん意義のあったことと思います。

      • 阪急本社前あたりが北野と呼ばれていたのですね。今の府立北野高校のあるところは新北野と今でも呼ばれています。なんで新北野かと思っていたのですが、北野高校が中津から移転していったのですね。なじみがあるところなのに意外と知らないことばかりです。地下鉄のこともそうです。まあ、じっくり調べることにします。ところでオエ70はなんとか塗装をするところまでになりました。あまりうまく出来てませんが、雰囲気は出てるのではないかと思っています。

        • どですかでん様
          さっそくのコメント、ありがとうございます。はい、阪急本社前の北側付近が「北野」でした。そこにあった北野中学が、十三へ移転し、現在の北野高校となりましたね。昭和50年まで走っていた阪神北大阪線にも「北野」の電停がありました。

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