“平成”の思い出 鉄道の記憶 〈9〉 

鴨東線の開業日に立ち会う

平成に入ってすぐ、京都では京阪電鉄鴨東線の三条~出町柳の開業がビッグニュースとなりました。鴨川左岸を出町柳へ至る新線計画は、大正時代からあり、三条までの地上線を、そのまま出町柳まで延伸するプランでしたが、昭和40年代後半になって、京阪、京福電鉄の共同出資によって鴨川電鉄が設立され、地下線で建設が進められ、平成元年10月5日、開業を迎えたのでした。
京阪は、同年の9月27日から鴨東線開業に対応したダイヤ改正を実施し、開業日当日は、慣例によって正午からの営業となった。まず開業一番電車を明るいところで撮影するために、東福寺の地下線出口付近に向かった。ちょうど、鉄道写真界の大御所のTさんや、知り合いの皆さんと一緒に、三洋化成前の踏切で待ち受けた。正午前は、三条行きのラストとなる急行、特急を撮って、出町柳12時01分発の一番電車を待ち受けた。車両は、もちろん鴨東線開業に備えて新造されたばかりの8000系第一編成だった。

そのあと営業を始めた出町柳駅へ移動、初乗りの市民で大賑わいだった。

そもそも鴨川左岸を行く鉄道線は、大正13年、京都電灯が路線免許を申請したことから始まる。昭和に入って一部の用地買収が始まったものの、折からの恐慌や、鴨川の水害もあって、工事は中断された。戦後、計画は再燃するが、地上線の構想のため、京都市電の丸太町・今出川線の平面交差による障害や風致上の問題もあって、なかなか工事には至らなかったが、時折、新聞紙上もにぎわすようになった。現在の神宮丸太町駅の近くに住んでいた私も関心を持って推移を見ていた。ただ、その当時、鴨川左岸の川端通は、片側一車線の狭い通りで、鴨川と川端通の間には、市の施設や公設市場、民家が建っていて、どこにレールを敷くのか、子ども心にも疑問に思ったものだった。
昭和45年になって、鴨東線は早急に建設すべき路線と運輸大臣に答申された。続いて昭和47年には、東福寺~三条の地下線化計画が具体化、鴨東線も地下線を延伸することでまとまり、京阪、京福電鉄の共同出資で鴨川電鉄を設立し、三条~出町柳の新線計画は、やっと実現に向かうことになった。

特急には「鴨東線開業」の副標が取り付けられた。

開業日の平成元年10月5日は平日だったが、会社を休んで見に行くことにした。京阪にお勤めだった、故 澤村達也さんからは、事前に、当日の運転予定もお聞きして当日に備えた。自分にとっては、少しだけ前の出来事のような感じがするが、もう30年も前のことだ。当日の感動も薄れつつあるが、いちばん印象に残っているのは、出町柳駅で、当会顧問の大西友三郎さんにお会いしたことだ。たしか昭和60年に、現役・OBで、「大西顧問に感謝する会」を開いて、それ以来の再会だったと思う。“どうしてるんや”と、人懐っこい笑顔で声を掛けてもらい、しばらく話をしたことを覚えている。大西顧問とは、これが最後の出会いになるとは思いも寄らないことだった。

一時、構想された京福電鉄への乗り入れは叶わなかったが、「洛北直結」がキャッチフレーズだった。

京福出町柳駅へ連絡する改札口付近のにぎわい。

イベントに出演したのか、舞妓はんも、さっそく特急に乗り込む。

唯一の中間駅が、住んでいた近くの丸太町駅だった。すぐ近くの地中で、こんな駅が造られていたのだった。今まで、川端丸太町付近は、決して人が集まるようなところではなく、市電時代の朝の急行運転でも、川端丸太町は通過していたほどだ。それが、一夜にして、ホーム上のこの賑わいだ。西へ行けば地下鉄丸太町、東へ行けば京阪丸太町と、市電時代と比べると、飛躍的に便利になった。

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