このたびの平成30年7月豪雨では、多くの鉄道路線が被災し、長期の不通を強いられそうで心を痛めています。そのいっぽうで、昨年2017年の九州北部豪雨で、橋梁が流失して不通が続いていた、久大本線光岡~日田が復旧し、久大本線全線で運転を再開しました。本日、博多では、「ゆふいんの森」の出発式が行なわれ、全線復旧を祝ったとネットニュースで知りました。ことし4月、久大本線を訪れて、代行バスに乗ったり、出会った人たちと復旧への足取りを感じてきた私としては、西日本の鉄道状況を見れば、心から喜ぶことはできないものの、少しでも復旧の端緒になればと思っているところです。
▲筑後川の上流のダム湖をのぞむ久大本線の夜明駅、赤い橋、赤いツツジ、赤い気動車と、三つの赤が収まる。右手に分かれて行くのが、いまだ不通が続く日田彦山線。
▲光岡に到着した列車、久留米方の久大本線の運転はここまで、駅前から代行バスに乗り換えて、ひと駅ぶん、日田へと向かう。
▲光岡駅前で代行バスを待つ。意外と多くの乗客が待っていた。▲▲待合室の告知。
▲光岡駅の代行バス、右は久大本線代行の西鉄バス系列の日田バス、左は日田彦山線代行の藤山観光バス。▲代行バスに乗り込む。大部分が由布院へ向かうインバウンド観光客だった。
2017年7月の九州北部豪雨によって、光岡~日田の花月川橋梁が流され、以来、光岡~日田は、代行バスを運転を行っていた。久大本線の売りである特急「ゆふいんの森」も、久留米経由で運転ができず、大分・小倉経由で博多~由布院間を結ぶ臨時列車として運転を行っていた。▲代行バスの窓から、橋脚の流された花月川の復旧工事を見る。
不通区間の光岡~日田は、隣り合う駅であり、代行バスの乗車時分は20分。久大本線の列車に接続して、一日12往復運転されていた。バスは、西鉄バス系列の日田バスが当たっていた。いっぽうの日田彦山線夜明~添田不通による代行バスは、日田が始発で、途中、光岡、夜明に寄ってから、日田彦山線沿線に入るが、添田まで向かう便の4往復以外にも、筑前岩屋止まり、また彦山~添田の区間運転もあって、経路は複雑だ。バスは、地場の藤山観光の小型バスが当たっている。
▲日田で代行バスを降りて市内の街並みを見学、豊後森機関区跡に設けられた豊後森ミュージアムも見学後、普通列車に乗って由布院へ向かった。窓には、特徴ある由布岳がどんどん近づいてきて、心が高鳴ってきた。▲由布院では、由布岳を一望できる、思い出の場所で、一人でゆっくりカメラを構えた。抜群の快晴で、ほんとに気持ちの一日だった。ついつい、陽が暮れるまで写し、あわてて駅へ戻った。
▲過去に一度だけ、「ゆふいんの森」に乗車しようとして、博多まで行ったことがある。ところが当日は、九州は土砂降りの雨で、博多周辺の鉄道は、新幹線以外、冠水して不通になった。「ゆふいんの森」もホームに入線したものの、運転取り止めになってしまい、予定変更せざるを得なくなった(2009年7月)。
いっぽう、将来が心配なのが、まだ不通が続く、日田彦山線だ。いまも山間部の添田~夜明が不通のままで、復旧工事のメドも立っていない。この区間の被害状況は、久大本線より、はるかに大きいようで、路盤崩壊、橋梁破損など63ヵ所もあると言う。JR九州は単独復旧は難しいと考えているとのこと。
日田彦山線の添田~夜明の被災前の実績を見ると、たいへん厳しいものがある。輸送密度は、1987年度が665人に対し、2016年度は131人に減少した。ちなみにJR北海道に置き換えると、根室線富良野~新得の152人、留萌線深川~留萌の183人よりも、まだ少ない。この2線は、廃止問題で揺れている線区である。添田~夜明間は鉄道廃止、バス転換の可能性が高くなった。今後のJR九州と沿線自治体の協議が注目される。
総本家青信号特派員さま
夜明駅ですか。懐かしい駅名です。小生も21年前のGWに同駅で撮りました。滅多に駅撮りをしないのですが、特派員さま同様、ホームの綺麗なツツジに魅せられてDE10+50系客車を撮りました。この時は珍しく駅撮りが多く、あと同様だった北山田駅でも撮りました。豊後森駅の扇形庫は綺麗になったのでしょうね。当時はガラスが割れ放題の廃墟でした。キハ0741も居たと思います。移動時にゆふいんの森号にも乗りましたが、少しハイデッカータイプで眺めは良かったものの荷棚がなく、荷物の置き場所に困った憶えがあります。
その後数回日田彦山線に乗りましたが、やはり乗れる時に乗っておくべきですね。苦い経験として、場所は飛びますが東北の気仙沼線はちょっと不便でそのうちにと思っていたところ、大震災でもう乗れなくなってしまいました。最近は時間があれば私鉄も含め未乗線区に乗るように心がけています。
1900生さま
“夜明”、いい響きの駅名ですね。周りの景色も素晴らしいです。川沿いの景色やホームの風情、絵になります。写真ではよく分かりませんが、右手奥へ日田彦山線がスーッと分かれていくところも魅力的です。この“スーッ”が大事で、何も幹線のように堂々としていなく、いかにもローカル線の分岐らしく、消え入るように分かれて行きます。もう一度、私も夜明から日田彦山線に乗ってみたいと願望しますが、現実はたいへん厳しいようで、JR九州には全く復旧の意志がないようです。
確かにこの夜明駅からの日田彦山線の分岐は、もちろん地形の関係によるものでしょうが、あっけない位に「さっさ」と分かれていきますね。しかも専用ホームでの発着で、久大線側には発着できない配線になっています。生い立ちが私鉄だったりするとままこういう例を見受けますが、元私鉄ではなかったと思います。かの宮脇俊三さんもどこだったか忘れましたが、このような例を指して要旨「分岐のスタイルはふつう暫く並走してから名残り惜しそうに分かれて行くのが多いが、はいここでお別れしますとばかりに、あっけなくさっさと別れてゆく」と述べておられたことがありましたね。
1900生さま
コメント、ありがとうございます。たしかに夜明駅の日田彦山線ホームは、久大線からは発着できないですね。宮脇さんは、さすがに巧みな表現をされていますね。とくに大きな集落もないのに、夜明が分岐点になったのは、たぶんに地形のせいなのでしょう。この地域の経済・文化の中心は、やはり日田ですから、最初から久大線に乗入れて、日田を目指す運転だったと思います。そう言えば、夜明の前を流れる筑後川の対岸には、明治の頃、筑後軌道が走っていました。当初は馬車鉄道で、その後、蒸気、内燃、一部電化した軌間914mmのユニークな鉄道でしたが、この鉄道も目指していたのは日田でした。
総本家青信号特派員様
日田彦山線は乗ったことがありませんが、南由布~由布のこの大カーブは私にも思い出があります。もう4~5年前ですが会社の同期の仲間と雨の久住山を登山しそのうちの一人で地元竹田の出身者(中津藩出身でお札に出てくる超有名な方が創立した大学の卒業生)が坂道でよろけて私に接触し、背骨を傷めました。次の日は彼らは痛さで苦しむ私を置いてミヤマキリシマで有名な山に登り、さらにその翌日は由布岳登山に出かけました。悔しいので途中まで車で同乗し、この有名大カーブで1日撮影をしました。彼の紹介で地元の病院にも行きましたが、結局骨折していました。今は元気にしておりますが、山登りはほとんどせず、撮り鉄だけを続けています。
準特急様
コメント、ありがとうございます。骨折のことは、前にもお聞きしていましたが、その場所が、この由布院付近とは知りませんでした。この撮影場所は、皆さんよく撮っておられますが、私が印象に残っているのは、一年上で、千葉県の生まれ、茨木市在住だったSさんが撮られた、朝の通勤列車を牽く逆向運転のD60でした。周囲は朝靄が出て由布岳も頂上だけ見えて、半逆光のD60の輝きがなんとも言えませんでした。もともと、この付近には、線路を乗り越す道路橋があったのですが、これも九州北部豪雨で一部が崩壊したようで、行った時は復旧工事中でした。
総本家青信号特派員様
DRFCに千葉県生まれの方がおられたのかと一瞬思いましたが、そういえば京成が好きな人がいました。関東言葉だったSさんで多分その人と思います。当時DRFCでは京阪、阪急の戦いが最盛期で近鉄、南海、阪神など他の関西私鉄ファンは肩身の狭い思いをし、時々毒舌の米手作市さんあたりが彼らに慰めの言葉をかけていたような雰囲気を思い出します。関東の京成ファンなどとは言い出し難かったと思います。Sさんも久大線で芸術写真を撮られていたのですね。
Sさんとは懐かしい!あの髭の濃いS井さんですね!?
どうしてはるんでしょうね?
総本家さんのお陰で思い出が広がります。
マルーン様
たしかに髭が濃かったですね。ボックスでは聞き慣れない標準語を話されており、メンバーの広がりを感じたものでした。
準特急追伸
Sさんの由布岳バックのD60バック運転客車列車はどこかで見たような気がします。鉄ピクか何かのコンクール入賞作品で3~4両の客車を力強く牽引して画面右から左に列車が進み煙が程よく流れているような作品であったと思います。
準特急さま
さすがによくご存じですね。ピク誌の写真コンクールに入選されていました。最初は、明徳館の地下かどこかで開いたDRFC写真展に出展されていたと思います。半逆光のなかの、素晴らしい写真でした。たしかニコマートをお持ちだったと思います。