平成に入ってから撮ったネガを眺めていると、撮影の記憶が全くないものも出てきます。以下の写真もその例で、この一枚しか撮っておらず、撮影日も、その前後の行動も不明です。平成も30年経てば、加齢もあって、記憶はますます薄れていきます。この点は、昭和の時代と変わらないと改めて思った次第ですが、何気に撮った一枚だけの写真でも、写真を仔細に観察すると、平成の歴史を感じ取ることができます。
▲平成に入ってすぐ、3月11日に実施されたJRダイヤ改正で、片町線の長尾~木津の電化が完成した。これにより片町線は全線電化となり、103系が全区間で走ることになった。写真は、木津駅1番ホームで写した快速の片町行き、木津発の「快速」は昼間40分ヘッド、同志社前発の快速と合わせて、快速は20分ヘッドでの運転だった。東西線の開業以前、学研都市線こと片町線が、めざましい躍進をする前で、線内完結していた時代である。木津駅も、蒸機時代のままの構内を残していた。撮影日も不明だが、調べると初日の3月11日は土曜日で、初日狙いで行ったのかもしれない。カメラを持った人間、腕章を巻いた指導乗務員も、いかにも初日のようにも見える。
▲さらに古いネガの中から、同じ地点で撮影した、C58の牽く荷物列車が出てきた。片町線の蒸機はC11のはずで、これは、関西本線に入る列車のようだ。木津~長尾は非電化で、キハ20系が折り返し運転していた。「長尾行き」の看板は、その案内で、平成とは違う、昭和の情景を残す木津駅である(昭和46年5月)。
紫野高校鉄研OB改め、「紫の1863」と名乗ることにしました。
総本家青信号特派員氏の着眼点には、いつも感心することばかりです。103系や113系はあまりにも身近過ぎたのか、ほとんど写真を撮りませんでした。昭和から平成に変わった頃は鉄道趣味から離れており、見逃したシーンの数々は未だに後悔するばかりです。クハ103の横でカメラを持つ青年がはくジーンズの形に時代を感じ、そういえばあの頃はよく見かけたなァと、懐かしく思い出します。2枚の写真を比べるとホームのかさ上げ、番線表示など別の駅のようにも見えますが、上屋の柱や屋根の形は変わらないようですね。電車が走るようになって、蒸気機関車がいた頃はずいぶん遠くなったように思います。
2枚目のC58 120ですが、これは奈良線ではないでしょうか? 関西本線の荷物列車はD51が引いていて、向かい側のホームを通過していたように覚えていますが、はっきりと言い切る自信がありません。C58 120は奈良の所属で、京都駅にもよく顔を出していました。昭和46年頃は2往復の荷物列車が運転されていて、上り列車は9時半ごろの荷8042列車、夕方6時過ぎの荷8044列車の2本がありました。荷8044列車は6時を挟んで20分程度停車していて、5時56分には京都行きの気動車が出ていました。総本家青信号特派員氏はこの気動車で帰られたのでは?と勝手に推理して楽しんでおります。
逆方行ではありますが、1番線で写した奈良線の荷8043列車を引くC58 120のネガが見つかりました。ハーフ版で撮ったためにお見苦しいかと思いますが、右の方に入れ換え中のハチロクが写っています。昭和46年6月撮影
紫野高校鉄研OB改め紫の1863さま
いつも暖かいコメントをいただき、感謝いたします。また、本テーマの趣旨をご理解いただき、ありがとうございます。歳を重ねたせいでしょうか、“平成の最初の頃なんか、今に続く、ちょっと前の時代”と思っていました。ところが、当時のネガを初めて取り出して、スキャンしてみると、今とは全く違う光景がありました。改めて“平成”の長さと、自分の歳を思い知りました。
くだんの荷物列車、奈良線ですね。1900生さんからも指摘がありましたが、奈良線にも荷物列車があったこと、思い出しました。これからも、手を変え品を変えてアップしていきます。よろしくお願いします。
総本家青信号特派員さま
C58 120の荷物レは奈良線の列車ではないでしょうか。小生の現認は2度ほどでしたが、桃山在住だったぷるぷるさんと西村さんからよく奈良線情報を聞いていました。もちろん関西線も否定はできませんが、加太詣での行き帰りなどに数えきれぬほど目にした荷物レは全てD51でしたし、関西線におけるC58運用は信楽線の貨物運用のために亀山~貴生川間の補機と夕方の亀山発草津行客レくらいしか知りません。尤も関西線の最急勾配区間を本務で牽いていたのですから、他にもなかったとは言い切れませんが。
C58120の写真をよく見るとC58のテンダーの後ろに貨車が1両はさまって荷物車2両のように見えます。荷物車の後ろにも車両があるような、ないような?1900生殿がおっしゃるようにぷるぷるさんと桃山界隈でよく荷物列車を撮影していました。但し昼間の京都行き荷物列車は桃山界隈ではC58のバック運転でした。奈良区のC58運用表を探したのですが出てきませんので不確かですが、貨物列車と荷物列車は複雑な運用だったように思います。和歌山線、桜井線を経て貨物・荷物の混合列車で来て、貨物は梅小路へ、荷物車は京都駅留めのため宇治で貨物と荷物を分けていたように思います。特派員氏の写真で右手に貨物ホームがありますが、奈良方面行きなら右手には広いヤードがあったはずなのでこのC58120はやはり奈良線に入る荷・貨混合列車のように思えます。
西村雅幸さま 総本家青信号特派員さま
西村さん、そういえば何度かご一緒しましたね。バック運転のことも聞いたような記憶があります。
一度片町線の大住辺りで撮ったこともありましたね。C11だと思っていた放出からの貨物を8620が牽いてきたので驚きました。ローカルはキハ20の単行でした。
片町線に関しては小生の最寄線なのでいくつかのエピソードがあります。JR化間なしの頃の関西線は亀山区のキハ35・40・58各系が混用されていて、片町線の木津~長尾間にも入線していました。一度加太からの帰りに上記混成5両編成の奈良行に乗り合わせたところ、前2両は木津止りで奈良方に転線後片町線ホームへ入線し長尾行になったことがありました。春秋の休日に加茂~伊賀上野間に臨時増発された時の運用はかなり複雑で、亀山発加茂行が木津へ回送されて長尾行になるなど楽しい運用の謎解きを楽しんだものです。
また木津電化後に快速が設定された時には、ダイヤ改正の数か月前にそれまで貫通7両編成だった103系の編成中に確か3500番代だったと記憶する運転台増設車を見つけ、さては途中で分割・併結するのかと予測したこともありました。改正から松井山手で実施するようになりました。余談ですがこの分割・併結はほどなく解消され、暫くはそのまま組み込まれていましたが、僅かの期間のために無駄な改造をと思ったものでした。しかし後に広島へ転出し呉線の安芸路ライナーや更に日根野に移って阪和線羽衣支線等で使用されて活躍したのは幸いでした。
1900生さま
西村雅幸さま
コメントありがとうございます。荷物列車は、奈良線へ入る列車でした。改めて配線図を見ますと、片町線は、木津駅で1番ホームのみにしか入線できない配線になっていました。ただ、奈良線への渡りがあるため、荷物列車のみは、レール磨きも兼ねて、1番ホームに発着していたようでした。紫の1863さんからも、反対方向へ向かう荷物列車の写真が寄せられています。西村さんのご指摘のように、貨車を連結していますね。奈良線の荷物列車は、検査入場のキハ35系を連結しているのは京都駅で何回か目撃しました。
西村雅幸氏のコメントは知らないことの連続で、「C58のバック運転」「和歌山線・桜井線を経て」は特に気になりました。昨年手に入れた「鉄道ピクトリアル」251号に奈良区C58の運用表が載っていて、「C58のバック運転」は京都発13時16分の荷8043列車のようです。城陽市在住のファン氏の写真集に、京都駅を発車する同列車が掲載されています。2両の荷物車を牽き、テンダを前にした逆向きです。牽引機は宇治で切り離され、一時間後の15時21分に梅小路行きの694列車となって折り返す運用のようです。荷8043列車は梅小路から宇治止まりの693列車を牽いてきたC58と交代し、桜井・和歌山線を経由して終着王寺を目指しました。
小生が木津で撮った荷8043列車ですが、C58 120は行ったり来たりを繰り返して、到着時と発車時では編成が違っていました。総本家青信号特派員氏の写真に見える貨物ホームの位置から考えると、どうやら貨車を繋ぎ変えていたようです。ちなみに貨車と荷物車の間には検査帰りと思われる、10系寝台客車が繋がれていました。
撮影当時は奈良線の列車ダイヤも知らず、偶然に任せた行き当たりばったりの撮影でした。「平成」の世になり、当時と比較にならない情報量のおかげで、半世紀近い昔のことが手に取るようにわかる便利なご時世となりました。小生の今の趣味活動は、知らないまま放り出していたことを調べることです。ネットで調べ物をしていた時に偶然このブログと出会い、知らなかったことの多くが解決できました。今回も、これまで調べようともしなかった奈良のC58の運用を知ることができ、たいへん勉強になりました。ありがとうございます。
最後に、前回アップした荷8043列車の、発車間際の編成を載せておきます。
紫の1863様
奈良区のC58の運用について正しい情報をありがとうございました。いかに老人の記憶がいい加減かを痛感しています。バック運転の荷物列車は京都発の下りでしたね。話は少し飛びますが、国鉄時代 連絡船で渡る北海道と四国を除いて首都東京と県庁所在地を結ぶ直通列車が無かった県庁所在地は和歌山市と山口市でした。当時の情報通信の手段は電信、電話、郵便でしたから、中央省庁と全国の自治体間の文書のやり取りはすべて荷物列車、郵便車が受け持っていた筈です。青函も宇高にも荷物車が積み込まれていました。そういう意味で山口市は大幹線の小郡からすぐなのであまり不便はなかったでしょうが、和歌山だけは幹線から外れた位置にありましたので、東京から和歌山への最速ルートは関西線奈良経由か京都から奈良経由だったのではと勝手に推測しています。木津駅の貴重な写真ありがとうございます。この荷物列車にはよく回送の気動車や客車が最後尾に連結されていました。粗い画像ながら桃山付近で撮影した下りの荷物列車の写真を添付します。
西村雅幸さま
県庁所在地で東京と直通車両(ここでは敢えて車両!)が無かったのは仰せの2都市でした。その後和歌山は関西線経由湊町(懐かしいものの古う~)行急行「大和」の寝台車1両を王寺で和歌山線のローカル客レにつなぎ替え、直通させて不名誉?を解消しています。昭和37年8月1日改正ダイヤでは、下り「大和」の天王寺着9:04に対し和歌山線519レの和歌山市着は11:28で、天王寺から阪和線乗継でも1時間以上は早く着くものでした。当時の和歌山線沿線に寝台車1両分の需要があるとも思えず、初めから非直通解消の名目だけが目的で設定されたのではと勘繰りたくなるダイヤでした。