大連の市電 投稿日時: 2009年7月16日 投稿者: K.H.生 戦前鉄道省に勤めていた明治30年生まれの祖父が満州に出張した際の 土産のパンフレットが昭和2年生まれの母を経由して私の手元にいま あります。 イラスト画に書かれている路面電車のことが少し気になりました。 この電車などについてご存知の方はおられませんでしょうか。 多少の知識でも知りたく思います。 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 関連記事がありません。
私の場合は昭和49年廃止の山陰線のD51客レを下関ー幡生間でよく撮りました。 朝の時間帯に1〜13レまでの6本の東京発のブルートレインは撮れますが 関西発のあかつき、彗星は50年の早春には難しく感度の高いフィルムはそう 買えずに見送った記憶があります。 夜行の急行も呉線回りの音戸は撮れました。 博多から大阪へ向かう上りまつかぜ、またDF50の客レもSL無き後はいい被写体でした。 時折やってくる宇部線の旧型国電、山陰線のバス窓のキハ20、そして80系電車、 いろんな被写体にカメラを向け飽きることがなかったです。 電関はEF15から66,30に81まで、いつも見慣れた交流機と違い小倉からわずか2駅で これだけ多くの種類の車両を見られたのは冥利でした。 あと44年に廃止になった山陽電軌のオーバーブリッジ等の廃線跡もこの頃は よく残っていたのに写真で記録していないのが心残りです。 馬関駅として山陽鉄道の終点として開業したのは明治20年代末、戦局迫る 昭和19年に関門トンネル開通で移転、一新した2代目駅も昭和30ー40年代なら まだ真新しい時間。50年に新幹線が開業してもまだ長距離列車を多く受け持ち 駅には活気がありました。 一等駅とかつて呼ばれた駅には物語があり、特にここは関と呼ばれるに相応しい ロケーションでした。 2004年にトルコのイスタンブールに旅行しアジアの終点、ウシュクダル近くの ハイダルパシャ駅に対するヨーロッパ側の起点、シュルケジ駅から夜汽車に 乗った時は感動しました。 やっぱり旅の印象はターミナルからに始まるようです。 返信 ↓
小西様、ありがとうございます。 たくさんの絵葉書を掲示いただき、ありがとうございます。 これだけの写真が撮られていたということに、当時の水準の高さに 改めて思いを深く感じました。 また、現代のこうしたやりとりが、迅速に、可能になったことに 素晴らしいことだと感銘しております。 ご示唆いただいたサイトも少し見ました。 旧満州で生まれた方、おそらく1940年くらいが記憶のある最後の世代でしょうか。 先日より読んでいる古書の著者、森瑤子さんと本文に出てくる池田満寿夫さんが ともに張家口生まれで思い出を語り合っているのが印象深かったです。 二人とも故人になられるには若すぎたのですが、これからも関心を持ち つづけていきたいと思います。 どうもありがとうございました 返信 ↓
私の場合は昭和49年廃止の山陰線のD51客レを下関ー幡生間でよく撮りました。
朝の時間帯に1〜13レまでの6本の東京発のブルートレインは撮れますが
関西発のあかつき、彗星は50年の早春には難しく感度の高いフィルムはそう
買えずに見送った記憶があります。
夜行の急行も呉線回りの音戸は撮れました。
博多から大阪へ向かう上りまつかぜ、またDF50の客レもSL無き後はいい被写体でした。
時折やってくる宇部線の旧型国電、山陰線のバス窓のキハ20、そして80系電車、
いろんな被写体にカメラを向け飽きることがなかったです。
電関はEF15から66,30に81まで、いつも見慣れた交流機と違い小倉からわずか2駅で
これだけ多くの種類の車両を見られたのは冥利でした。
あと44年に廃止になった山陽電軌のオーバーブリッジ等の廃線跡もこの頃は
よく残っていたのに写真で記録していないのが心残りです。
馬関駅として山陽鉄道の終点として開業したのは明治20年代末、戦局迫る
昭和19年に関門トンネル開通で移転、一新した2代目駅も昭和30ー40年代なら
まだ真新しい時間。50年に新幹線が開業してもまだ長距離列車を多く受け持ち
駅には活気がありました。
一等駅とかつて呼ばれた駅には物語があり、特にここは関と呼ばれるに相応しい
ロケーションでした。
2004年にトルコのイスタンブールに旅行しアジアの終点、ウシュクダル近くの
ハイダルパシャ駅に対するヨーロッパ側の起点、シュルケジ駅から夜汽車に
乗った時は感動しました。
やっぱり旅の印象はターミナルからに始まるようです。
これは「下関駅を想う」に対するコメントですが何度やっても
エラーになるので、ここの場で書かせてもらいました。
小西様、ありがとうございます。
たくさんの絵葉書を掲示いただき、ありがとうございます。
これだけの写真が撮られていたということに、当時の水準の高さに
改めて思いを深く感じました。
また、現代のこうしたやりとりが、迅速に、可能になったことに
素晴らしいことだと感銘しております。
ご示唆いただいたサイトも少し見ました。
旧満州で生まれた方、おそらく1940年くらいが記憶のある最後の世代でしょうか。
先日より読んでいる古書の著者、森瑤子さんと本文に出てくる池田満寿夫さんが
ともに張家口生まれで思い出を語り合っているのが印象深かったです。
二人とも故人になられるには若すぎたのですが、これからも関心を持ち
つづけていきたいと思います。
どうもありがとうございました