“頭出し”のあとは 丹波口駅へ

50年前の昭和49年1月、梅小路蒸気機関車館で“頭出し”を撮ったあと、近くの丹波口駅へ寄ってみました。いまの高架化された丹波口駅は、五条通の南にありますが、地上線時代の当時は、七条通の少し北へ行ったところに所在していました。山陰線に蒸機が走っていた時代の昭和46年までは、丹波口でも撮影しましたが、京都発の下り列車を狙うため、駅の北側や陸橋で写していて、まともに駅舎を撮ったことはありませんでした。 京都鉄道博物館の展示室にも丹波口の駅名標が展示されていた。

都会のエアーポケットのような山陰本線の丹波口駅。昭和47年までなら、市電大宮線「島原口」下車、まっすぐ西へ行くと、突き当りに丹波口駅があった。明治30年、山陰線の前身、京都鉄道の駅として開業した。昭和51年に、高架化と同時に北へ500m移転した。

 

駅構内を見る。二面三線の典型的な国鉄駅スタイルだが、片屋根の待合所からも分かるように、3番線相当には列車の発着は無く、実質は対向式として使用されていたようだ。跨線橋は無く、向かいのホームへは線路横断していた。

 

駅舎は木造モルタル造りだが、基礎部は石積みで、駅名に隠れているがステンドグラス風の半円形の窓ガラスがあるなど、凝った造りになっている。

改札口を通してホームを見る。もうひとつ向こうにもホームが見える。これが隣接する京都中央卸売市場の積込ホーム、ワム車がつねに停車していて、農産物を下ろしていた。上りの京都行きが到着、キハ20系で編成されたDC列車、ガスタンクは、大阪ガス京都工場の貯蔵タンクで、直径60m、高さ40m、京都のどこからでも見えた。昭和3年の京都瓦斯の工場がルーツで、用地内には引込線もあり、小型蒸機が出入りしていた。いま跡地は京都リサーチパークになっている。

そのあと、ふたたび梅小路に戻ると、丹波口からの引込線(現在、市電2000形が保存されている付近)に、ワムフ100が良い位置に停車していた。急行小口貨物専用で使うワキ1000の緩急車として、新造・改造で118両が造られた。昭和40年ごろには、急行小口専用ではなくなり、ほかの有蓋貨車と同じように使用されていた。ボギーのため居住性がよく緩急車として好まれたのか、この時点でも100両程度が残っていた。

 “頭出し”のあとは 丹波口駅へ」への19件のフィードバック

  1. 総本家様 今年もよろしくお願いします。
    私も旧丹波口駅の写真をカメラに収めていました。昭和51(1976)年3月16日、山陰本線の京都駅と二条駅間の単線高架を3日後に控えた春の一日です。七条陸橋と七条通りで撮影したあと五条→四条と撮影の途中に立ち寄りました。3日後に移転するとあって張り紙がしてありましたが、ほかは通常通りの営業でした。時代物の列車案内も、移転が決まってそのままになっていたのでしょう。ホームの先の中央市場の線路にはレムが見えます。

    • 勘秀峰さま
      きっちり記録されていますね。地上駅の廃止3日前の様子を拝見しました。中央市場の様子も含めて、普段とは変わりない丹波口駅が感じられました。下りの14:20発の福知山行き、ありましたね。C57の時代でも、この列車は昔からDF50牽引でした。

  2. 総本家青信号特派員さま
    旧丹波口駅、小生にとって鉄道趣味の原点とも云える懐かしい場所でした。以前にも申し上げたように鉄道のキッカケは大宮線を走る市電でしたが、本格的な「鉄道(車両)」に接したのはこの丹波口駅界隈でした。従弟宅へ遊びに行った際は必ずというほど行きました。とはいえ列車を見ることが目的で、乗るためではなかったため、写真の駅舎については殆ど記憶がありません。ただ一度いや二度だけ訪れたことがありました。小さい頃に親父が丹波口から二条までキハ07(だと思います)に乗せてくれた時と、叔母の旅行帰りを迎えに行った時でした。しかし前者は小さすぎたため(というより07に関心が行ってしまった)、また後者は夜の20時過ぎで暗かったため、小さな駅だったように微かに憶えている程度です。西側に長く延びていた中央市場のホームや建物とガスタンクは記憶にある丹波口駅のランドマークでした。駅周辺にはいつも微かなガスのような匂いが漂っていたものです。
    この駅では主に文中にある駅北側の中央市場への歩道橋からタマに来る列車を眺めていました。茶色のDF50が牽く準急「白兎」、新設間がない準急「丹後」(朱とクリームのキハ20の間に青とクリームのキロハ18を挟んだ編成)、もちろんSLも当初のC54(記憶が曖昧)、C57、D51を飽きもせずに眺めていたものです。DC列車は殆どがバス窓のキハ20第一次車でした(丹後を除く)。
    就職して初めて手にした8㎜カメラで初撮影に挑戦したのもここで、休日運休列車のC57を回送増結した園部行重連を撮りました。小生向け想い出多い駅を書いて戴いたような記事で感謝申し上げます。

    • 1900生さま
      丹波口駅をテリトリーにされていたのは、米手さん、1900生さんしか居ない ! の思いで出しました。やはり1900生さんにとっては、鉄道趣味の原点でもあったのですね。駅で撮った車両の思い出もあるものですが、駅そのものの思い出に繋がるような写真は案外撮っていないものです。とくに、丹波口は、京都市内のなかで、いちばん目立たない、マイナーな駅でした。たしか、この時は、クローバー会のメンバーと一緒に行った気がするのですが、よく撮っていたものと思います。

  3. 地平時代の丹波口駅、楽しませてもらいました。山陰本線が高架になり、五条通へ移転したのが昭和51年ですので、遠い昔のことになったのですね。
    私、旧丹波口駅を利用したのはわずかに2回しかなく、駅舎の記憶は全くありません。それでも中央市場のホームは、しっかりと覚えています。白い冷蔵車や有蓋車がいつも停まっていて、開いた扉から積み荷が見えていたのも覚えています。ただ、写真は撮りませんでした。高架になった直後は職業柄か積み荷が気になり、通るたびに見ていました。北海道産の玉ねぎとジャガイモ、カボチャなどが山積みになっていました。しかし、それも昔話の類となり、今では独自のルートで仕入れる大手スーパーが増えて中央市場の存在価値は低下の一方です。
    駅舎や駅前が写った写真は見る機会が少なく、今回初めて見る駅舎内の様子を食い入るように拝見しました。改札の上にあった列車の案内は、このころ実際に見ていただけに懐かしさもひとしおです。
    また、玄関に飾られた「根引き松」は、いかにも京都らしい正月の風景です。島原に近い土地柄もあるのでしょうか。新春早々から、良いものを見せていただきました。ありがとうございます。
    昨年の3月、この付近を歩いたときに丹波口駅の名残を見つけました。仁丹の町名表示板ですが、本来「正面通」とするべきところを「丹波口駅前」と書いてありました。この道をまっすぐ歩くと丹波口駅に行けるわけで、地理に不案内な旅行者にもわかりやすいように配慮されたのかもしれません。

    • 紫の1863 さま
      丹波口駅の思い出、ありがとうございます。下車されたのは2回だけと聞きましたが、私に至っては、乗車、下車した記憶はなく、無縁の駅でした。仁丹探し、進行中なのですね。駅前の通りは、正面通でしたか、私はよく分からず「市電島原口下車西へ」と曖昧に書いてしまいました。最近、駅前通を歩いてみました。米手さんが、絶品の“うすばね”を紹介された菱屋さんほか、島原の歴史を留める街並みがまだ健在でした。

  4. ここに書かない手はない!のですが、実は忸怩たる思いがします。
    というのは、撮っておこうと思いながら一枚も撮ることなく駅は消え去りました。この写真を見ながら「ああそうだったな」との想い出に浸っております。出口の内側(改札口を出ると正面)にばかでかい柱時計があった様に思います。返す返すも残念です。
    この写真をコピーさせてください。

    • 米手様
       コメント、ありがとうございます。丹波口・梅小路で、人生の大半を送られた米手さんの忸怩たる思い、私もよく分かります。地元は、なかなか記録が残せていません。“いつでも撮れる”の思いがあったこと、それと、まだカメラが珍しかった時代、近所で撮っていると、気恥ずかしい思いがあって、なかなかカメラを取り出す気持ちにはなれませんでした。私も丹波口では、この陸橋では撮っていましたが、駅舎そのものは、以上の数枚だけです。大阪ガスの蒸機も見たような記憶があるのですが、全く記録がありません。でも米手さんの写真からは、構内の配線がよく分かりますし、丹波口という旅客駅と、京都市場駅という貨物駅が、これほど仲良く、隣り合って共存している例も珍しいと思いました。

  5. 地平時代の丹波口はこんな渋い、小粋な駅舎だったんですね。ご紹介ありがとうございます。市場の貨物扱いの情景もすごくいい感じです。
    特派員様仰せのとおり、当駅はまさに「マイナー」なイメージですが、マイナーと言えば、緩行線電車専用駅でもないのに時刻表巻頭路線図に記載されておらず、一駅くらいずらして記載できんことないやろに、と不憫に思ったものでした。
    高架完成記念で梅小路のC11が二条まで走ったのを雑誌の記事で見た記憶がありますが、撮っておられませんでしょうか?もしかしたら営業用SL終了後の復活SL第1号?

    • 宇都家さま
      はい、いい雰囲気の駅舎でした。初めてデータ化して、私も分かりました。駅前の「大衆食堂」の筆文字も何ともいい味を出しています。お書きの時刻表巻頭路線図というのは、国鉄時代の京阪神近郊電車の案内図(電車車内に掲出されていたもの)でしょうか。たしかに、山陰線は全く無視されていました。当時は、電車区間ではないにせよ、乗り換えなど全く考慮されていなかったのですね。

  6. 宇都家様
    たいした写真ではありませんが、こんなものでよければ御笑覧ください。
    撮影は昭和51年3月16日です。高架完成記念の祝賀列車ですので、高架線で撮るべきだと思うのですが、この頃は何も考えておりませんでした。

    • 紫の1863さん
      これが正解です。
      私はビルの屋上から撮りましたが擁壁にジャマされて肝心の動輪が撮れませんでした。ボツ!

      • ピンポン ! です。私の勤務していた会社が山陰線沿いにあり、ちょうど昼休みに走るとあって、勇んで屋上から写したのですが、下半分は完全に隠れてしまいました。

  7. 京都~二条 高架完成の折には記念入場券も発売されました。京都駅発行額面30円の切符です。当時は記念乗車券や記念入場券の花盛りで、組み販売が多かっただけに、1枚だけの入場券で、絵柄もあり合わせの素材の様で、何やらチープに思えたものでした。

    • 勘秀峰さま
      こんな記念入場券が発売されていたのですか、初めて見ました。たしかに、当時の記念入場券はセット販売が多かったですね。売価30円では、なかなか商売にはならなかったのでしょう。

  8. 総本家青信号特派員様、
    地平時代の丹波口駅、懐かしいですね。とは言っても、私は通り過ぎるだけなので、京都駅の山陰線ホームが満線で抑止を食らったり、お客さんが非常コックを扱って臨時停車したり(今だとニュースものです)、とあまりいい想い出はありません。高架になってからは、京都タワーがくっきり見えるようになり、帰ってきたなぁ~と思える駅になりました。
    二条までの連続立体交差事業は、京都市内では2番目、全国では18番目の事業で、勘秀峰様の記念入場券の裏面からは約15億円/kmとなり、今では考えられない事業費です。
    この連続立体交差事業では7箇所の踏切が除却されましたが、京都市場駅の関係で七條通りは除却できませんでした。踏切の警報機が写っていましたので、七條線の最終日の写真を添付いたしておきます。

    • 四方誠さま
      市電七条線の最終日の写真を見せていただき、ありがとうございます。私もこの場所からよく狙いました。山陰本線は高架になっているのに、市場駅への貨物線は地上で残ったため、市電は最後まで、踏切をくぐっていました。いっとき、高架を行く山陰線列車と絡めて、と思いましたが、全く市電と出会うことはありませんでした。やはり、山陰線も本数がウンと少なかった時代です。

  9. 早々にC11記念列車の写真に記念入場券のご投稿をありがとうございます。
    記念列車はロイヤルホテルの前辺りでしょうか?煙がよく出てて迫力ありますね。左側の撮影者達は今なら警察沙汰、報道沙汰?
    この記念入場券、記念列車のことを知らなかったら、何故にC1164の写真が載っているのか、意味不明ですね。初乗り、入場券が30円の時代はかろうじて覚えています。一気に60円になったのも確かこの年でしたか?
    書きました路線図とは、交通公社発行の全国時刻表巻頭の路線地図のことです。うろ覚えですが、確か丹波口は省かれていたように思います。

  10. 昭和51年3月16日は平日でしたね。運転日と時刻は新聞に載っていたように思います。場所は宇都家様がおっしゃる通り、リーガロイヤルホテルの南です。
    面白い場面を撮っていました。梅小路から回送されてきたC11 64に、サラリーマンや鉄子さん?が夢中でカメラを向けています。線路柵を越えてはいませんが、今の基準ではアウトかもしれませんね。

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