乙訓の老人が、つれづれなるままに撮りためた写真と想い出を書き綴るシリーズ。
今回は幼い頃から姉の嫁ぎ先であった善通寺への旅でなじんだ高松琴平電鉄「ことでん」です。
例によって乙訓の老人が書きためたデータは雲散してしまっていて、正確な事が書けません。ご覧になった皆様が、それぞれの知識で書き加えたり、訂正してください。早い話が、『Wikipedia』ならぬ『Okipedia』と致します。ご協力をお願い致します。
なお、乙訓の老人から「参考に使え」と渡された本が、老人が資料を提供して特派員氏が編集した「琴電100年のあゆみ」森貴知氏(canbooks)でした。解説はこの本と、老人が原稿に添付してくれたメモを使っております。
四国に初めて鉄道が開通したのが明治21年(1888年)10月、松山~三津間の伊予鉄道です。さらに江戸時代から「こんぴら」参りが庶民の信仰として人気があり、これを見込み相次いでこんぴら行きの鉄道が計画されました。
昨年の「ブラタモリ」で放送されましたが、琴平には琴平電鉄、高松電気軌道、讃岐電鉄の三つの鉄道が集中していたそうです。戦時中に、それらを統合して「高松琴平電気鉄道」が誕生しました。
⇩ 創業期の単車 01型 5と3(車体更新)
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⇩戦時中の輸送力不足を補うために、電動貨車の30型まで動員された
⇩ 車体更新された01型
⇩ 戦後の混乱期、焼けた国鉄ワフを制御車に改造して電車に連結して運行した
⇩ さすがに乗客からは「客を貨物扱いする!」と批判が出た
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⇩ 長尾・志度線輸送力増強のため、全国から中古車が集められた
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⇩ 混雑は今では考えられないぐらいの酷さであった
⇩ 大型車両の購入先は全国にまたがり、木造車まで買いあさった
⇩ 昭和28年に「第8回国体」が開かれることになり、日立製の新型車両10000型が導入された。昭和33年からは急行となり、昭和34年には全車クロスシート化された
⇩ 機器も電空併用ブレーキ、ワンハンドル制御など、最新装備であった
⇩ 旧型車両の更新改造も始まった。60型の車体を自社工場で鋼体化した62号が竣工した
⇩ 急行増発のために「こんぴら号」に次いで「りつりん号」12000型が登場した。車内に軽食の販売も出来る売店が付いて、さらにはポストまであったとのことである
⇩ りつりん号
⇩ 急行運転は、実際には乗客は少なく、単行で運転されることが多かった
⇩ 各地からの助っ人 東武からの購入車
⇩ 買収国電 230
⇩ 買収国電 220
⇩ 電動貨車デカ1
※さきに記したように乙訓の老人が記憶に頼って書いた原稿であるので、知識のある各自が「訂正」「補追」にご協力願いたい。
乙訓の大老様
暑くなったと思うと涼しくなったりと、寒暖の差が激しいですから、くれぐれもお体を大切になさって下さい。
貴重な資料をいつも有り難うございます。
正直「琴電」に関しては、乗車したこともなく何も語る資格がありません。
拝見させて頂いて、昭和の元気な時代、あふれる乗客、新車投入、あの時代の記憶が呼び起こされました。
車両の数々、それぞれの個性を感じますが、私が育った地域の鉄道車両ともデザイン的に共通項を感じてしまいましたが、これは「昭和」がなせるものなのでしょうか?
米手さま
乙訓の老人様と琴電との結びつきは、それこそ耳にタコができるぐらい聞かせてもらっています。その後、東京の出版社から琴電の本を出すことになり、私も編集に参画し、真っ先に老人の思い出を載せることを提案しました。そこには、貨車から改造された電車など、老人でしか撮ることが出来なかった貴重な写真と思い出が載せられています。またその後、この本の車内吊り広告に、乗客があふれた瓦町駅の写真が載ったり、琴電の広告にも琴平駅の急行電車が使われたりと、老人の撮られた写真は、皆さんに感動を与えています。
乙訓の老人様、米手作市様
今日は孫を連れて京浜急行の久里浜工場でのファミリー鉄道フェスタに行ってきました。琴電の128号(元京浜急行)と同じ顏の51号と230型がマルーン色で保存されていました。琴電は飯田線と共に動く鉄道博物館などと言われ、私も東西大手私鉄からの譲渡車両を結構撮ったと思っていましたが、老人さんのような国宝級の車両はほとんど撮れませんでした。しかし、東南アジアかインドと間違うような満員列車の光景が見られますね。今なら安全軽視で鉄道会社もたたかれるでしょうが当時の社会がわかるようで懐かしい感じもしました。有難うございました。
皆様からの投稿は長老様もご覧になっております。
どうか刺激のある書き込みで長老に元気を送ってあげてください。