福井鉄道の旧京浜


福井鉄道南越線モハ103 

乙訓ご老人の投稿があって、待てよ、確か須磨老人も福井で撮ってる筈と、限りなく薄れた記憶を搾り出すと、1958年7月30日南越線でモハ103を、翌年4月3日鯖浦線でモハ101を撮っていた。高松琴平同様、京浜電気鉄道の新車導入に対する代償=「供出」で、当然ながら最も古い車両を手放したのである。詳細は乙訓老人か、藤本哲男氏にお願いしたい。元来この老人がなんでこんな電車を撮っているんだといわれそうだが、話は簡単―木製車だからでありますよ。中央扉が真ん中にないのが福井での特徴みたいですね。


福井鉄道鯖浦線モハ101

福井鉄道の旧京浜」への2件のフィードバック

  1. 須磨の大人からのご要望に応え、福井鉄道101~103についてポン友であった吉川さんの記述の受け売り延長戦とする。京浜創業期のボギー車の更新改造第一弾は、
    先の4両の前年、1925年に施工されたデ11形11~13号の3両であった。台枠から新製、木部は自社川崎工場で製作した。ドアは外吊り戸袋なし、D16Dの窓配置であった。後年、客用扉を増設しているが、車体中央でなく窓配置はD6D8Dとなったが、扉位置は斜め対角線状にある。東急合併前にク11となり合併時はクハ5200形5201~5203となった。1943年5月廃車、1950年1月福井へ輿入れ、南越線で使用された。老人は富山時代見たことがあるが、フィルムは三八豪雪の後遺症で焼失し、久しぶりに珍車にお目にかかった。まず気付いたのが台車。BW78-25系のものだ。関東では珍しい。しかも狭軌だ。何処から調達したものか、または改造したものかポン友さんに尋ねてみたいが声の届かぬところに逝ってしまわれた。
    さて高松といい福井も終戦直後、大手私鉄に新車が導入されるやその代償として、中古車が導入された好例であろう。その玉突き数量は運輸省割り当て新造車数-戦災車数=放出車両数だと奥野師匠に教えられ、関西大手私鉄について調べたことがあるが、全然合わなかった。関東では戦災車数が多く、それが大東急に集中、国電戦災車払下げも絡み複雑な様相を見せたので、いまだに分からぬのままだ。これをポン友さんにぶつけたが、「こだわらずに行きましょう」といわれた。したがって高松の7両までは大東急からみだが、8両目高琴モハ21は高松到着時期が遅いので、たんなる商行為であったのかも知れない。ピク誌656号に紹介されている。

  2. ご老人を煩わせ申し訳ないが、そうですか、中央扉の食い違いはオリジナルでしたか。有難うございます。なお高松琴平は標準軌間でしたなぁ。福井はサブロク。今頃気付いた。京阪の100型が高知に行ったのも1435→1067でありますな。そういえば福井には南海の丸妻車もいましたな。やっぱり誰かが、当時の供出車をしっかりまとめておく必要があるんじゃござんせんか。電車だけでなく、江若のキニ1、2なんかも含めて。蒸気機関車も例えば立山重工業製新鋭機を割り当てられた釜石→日鉄鉱業や、栗原の老朽機が各地に散った例も。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください