東海道本線開業時の面影巡り、続けます。桂川右岸の探索を終えて、左岸の西大路・京都方面に向かいます。ただ徒歩では川に阻まれて、桂橋まで3キロ近い迂回を強いられて、桂川橋梁の左岸側に到着しました。ここには、少し前の京都鉄道博物館で行われた企画展「鉄道遺産をたずねて」で、初めて知った周知の遺跡へまず向かいました。
▲桂川左岸の橋脚3基については開業時のものとも言われるが、これに疑問を呈する論文もあり、真相はよく分からない。ただ、上り線複線分の煉瓦橋脚は存在感が十分にある。下部にはアーチ状の切り欠きがあり、ここに興味深い刻印が・・。
5 ここにもあった開業時の煉瓦積み
前回に記載のように、開業時の明治9年(1876年)8月に錬鉄製のワーレントラス橋が単線で桂川に架けられた。その後、輸送量が増大し、複線化が進められ、明治44年(1911年)に、現在見られるポニーワーレントラス橋が単線並列で架けられた。現在、河川部にある橋脚のたもとに、煉瓦積みの円形橋脚土台が残されている。時代は不明なものの、橋梁が架け替えられていることから考えると、明治9年の開業時のものと考えるのが妥当なところだろう。
◀水に浸かった状態で残る開業時の煉瓦積み(写真中央)。小口と長手を交互に積むイギリス積みで、外周には、くさび形の異形煉瓦も用いられて円形を形成している。右手に見えるコンクリートが現在の橋脚。
6 ホントに開業時の橋脚?
▲前記のものは、河川部にある単線並列の円筒形のものだが、河川敷にも3つ橋脚がある。これらの橋脚は、複線相当の大規模なものである。これらは開業時のものと書かれている資料も見受けられる。開業時は単線であり、明治末期の複線化の際に、改修して現在の姿になったのだろうか。ただ、この説に疑問を呈する論文もあり、現地で、当該の橋脚の煉瓦を仔細に見ると、劣化は見られず、開業時のような明治初期とは思えない。改修の際に、開業時のものは内部に埋め込まれたのかもしれないが、外観上は、“開業時”と判断するのは難しい印象だった。
▲この橋脚の下部には、半円状のアーチがあるのが特徴だ。アーチ部には刻印つきの煉瓦が見られる。煉瓦の刻印は、製造所を示すものと、個々の製造者を示すものもあり、その種類は無数にあるようだ。刻印ばかりのサイトもあり、調べてみると、京都~大阪の建設の際、煉瓦製造に携わった浅田政三工場の煉瓦ではあるが、刻印そのものは、製造所(者)を示すものではなく、施工する位置を示すもので、これはアーチ部に使用する刻印の可能性が高いとのこと、今回は発見できなかったが、桂川橋梁には、A、B、D、Eの刻印もあり、写真の刻印は、「C」を示すものだと言う。西村さんからのコメントのように、この近くに、政府直轄の煉瓦製造工場があったことが知られており、浅田政三は、この煉瓦工場で請け負いをしていたそうだ。
▲DRFC顧問だった大西友三郎さんが所蔵されていた、戦前の桂川橋梁を渡るC53の牽く列車を見てもらおう。トラスの形状から、下り線であり、現在の桂川駅側から撮られている。明治期に架設された上り線が左側に見えている。
総本家青信号特派員様
鉄道写真は車両、それも米粒のような小さいのではなく番号が見える程度に写っていないと駄目であると思っている私ですが、車両の写っていない総本家さんの面影巡りレポートにはひかれるものがあります。鉄道趣味には撮り鉄、乗り鉄、模型鉄の他、いろいろありますが、遺構を探すのも面白いと思いますし、廃線跡巡りも熱心な方が多いと聞きます。私はそちらまで手が回らずDRFC-OBのイベントで京都駅界隈の遺構を見たのと、福知山線撮影の途中で現副会長さんお二人に連れられた行った篠山線の廃線跡くらいです。大津のハチロクさんのところでもそれらしき場所が散在するようで一度案内していただこうかなと勝手に思っています。何れにしましても見る人は見ているこのシリーズ楽しみにしております。
準特急様
コメント、ありがどうございました。鉄道遺跡巡りは、生活圏内で、見慣れた場所ほど、鉄道があった時代とのギャップが感じられて楽しめるのではと思っています。また、はっきりとした遺跡より、痕跡のようなもののほうが、想像の幅が広がって楽しいものです。今回紹介のものは、すでに紹介済みのところを、なぞっているに過ぎませんが、たとえば2回目に発表の桂川右岸で見つけた煉瓦塊は、ネット情報にもなく、自分としては新発見だと思っています。些細なものでも、自分で発見する楽しみが残っている趣味分野だと思っています。