東海道線開業時の面影を巡る 桂川~西大路~京都 ②

明治5年の東海道線の開業に際しては、煉瓦造りの構造物が多く設けられます。そのうちのいくつかが、煉瓦を斜めにねじった「ねじりまんぽ」でした。以前、乙訓老人からも、この区間に煉瓦の構造物が残っていると聞いており、その存在は把握していましたが、いろいろと調べて見ると、外から中は見えず、うっかりすると見落としそうな、小さな水路に架かるアーチのようで、桂川橋梁方面に進むうち、見落としのないよう、気を付けながらの歩き出しました。その物件へは、意味ありげな小さな祠が目印。東海道線の北側の道を歩いていると、たしかに、それはあった。横には、コンクリート製の小さな暗渠が見えて、背をかがめて、その中に潜ってみると・・・。

2 発見!「ねじりまんぽ」手前のコンクリート製の暗渠は、昭和37年の向日町~京都の回送線新設の際に造られたもの。その続きの現在の上り線が開業時のもので、二線相当分のところに間違いなく煉瓦造りの「ねじりまんぽ」があった。写真では大きく見えるが、高さは1.2m程度しかない。名称は「馬場丁川橋梁」と言う。かつては、文字通り水路があったようだが、現在では涸れている。付近に避溢橋があったことを示すように、ほかにも小さな水路が多く見られた。線路に対しては、わずかに斜めになっているが、ほぼ直角に近い。こんなところにも、力学的な関係で「ねじりまんぽ」を採用したことに感心しきりだった。

「ねじりまんぽ」とは、煉瓦のアーチ橋を斜めに架けるための技法で、ふつうアーチ部に煉瓦を積むときは、まっすぐに積むが、斜めに交差する場合などに、アーチ部を斜めにねじって積むことがあった。京阪神間など、鉄道創設期の路線に存在しており、この技法は、外国人技師によって導入されたと考えられる。京都なら、蹴上から南禅寺へ抜ける、琵琶湖疏水のインクライン下のトンネルが「ねじりまんぽ」として有名で、全国に多く存在するように思えるが、鉄道橋を中心に30ヵ所程度しかない。東日本には存在せず、その多くが京阪神地方に所在する。コンクリートによる構造物が発達する大正時代以降の構造物には見られない。

3 桂川に放置された開業時の煉瓦積み?

桂川の河原に着いて、付近を物色していると、桂川橋梁の上り線の橋脚のまわりに、煉瓦の塊が放置されているのが見つかった。前号で記載のように、桂川橋梁そのものは、明治45年に架け替えられており、現在一部で見られる煉瓦積みの橋脚も、この時のもので、開業時のものではない。すると、この煉瓦塊は、開業時のもので、架け替え時に廃棄され、一部がそのまま放置されたと考えられないだろうか。もちろん確とした資料もなく、推測の域を出ないが、140年以上前の煉瓦塊が放置されていると思うとワクワクしてくる。

4 明治期のポニートラス橋を観察する

明治9年の開業時に桂川に架けられたのは、イギリス製のポニートラス桁だった。ほかの京阪間でも、十三川、上神崎川、茨木川、太田川も同じ形式で、鉄道創成期の橋梁だった。新橋~横浜の六郷川も同様で、その後、御殿場線に転用されたうえ、現在では明治村に保存展示されている。しかし、明治後期になると、機関車が大型化し、イギリス製では負担力が不足することになり、アメリカ製のトラス桁に移行し、以後は、これが日本のトラス桁のプロトタイプとなる。桂川橋梁の上り二線は、単線型並列のアメリカ型ポニートラスとして、明治45年に架設された。ポニートラスとは、天部に当たる上横構の無いものを言い、比較的規模の小さいトラス橋だ。電車に乗って桂川を渡った時に分かるように、トラスの上弦材がちょうど眼の高さのところまでしかなく、ほかのトラス橋に比べて、ずいぶん高さが低いことが分かる。桂川橋梁は、上下でトラスの形式が異なっている。左の上り二線は、明治期のポニートラス桁で、右の下り二線は、複々線時に架けられた昭和生まれのワーレントラス桁である。さらに北側には京都~向日町の回送線の橋梁もある。

 

 東海道線開業時の面影を巡る 桂川~西大路~京都 ②」への11件のフィードバック

  1. 着眼点がちがいますね!
    子供の頃からウロウロしていた場所なのに、こんな事は全く知りませんでした。いつも通る御前通りのマンプ(子供の頃はこう呼んでいた)、猪熊通りのマンプなどでは煉瓦の違いなどを見ていましたが・・・

    • 米手さま
      コメント、ありがとうございます。マンプとも呼んでいたようですね。線路の下を通るトンネルのことを、関西を中心とした西日本地方ではこう呼んでいました。谷崎潤一郎の「細雪」にも登場する言葉として有名です。御前通のマンプは、私も行きましたので、のちほど記述したいと思っています。

  2. 総本家青信号特派員様
     「ねじりまんぼ」、聞いただけでは何やそれ?となりますが、良く見付けて頂き、写真で見せて頂き、有り難うございました。
     時代を反映する手造り文化ですね。それにしても、煉瓦造りは美しいですね。

    • マルーンさま
      いつも暖かいコメントをいただき、ありがとうございます。今のようにコンクリートで一気に埋めてしまうのではなく、煉瓦ひとつひとつを丹念に積み上げていった、明治期の工法には、私も手造り文化の魅力を感じ、鉄道関係だけでなく、建築物にも記録の対象を広げています。散歩していると、時々、家の花壇に煉瓦を使っているのを見掛けることもあり、思わず他人の家を見入ってしまう、怪しい老人になっていました。

  3. 中央線の瑞浪電化時に廃線となった区間の一部が「愛岐トンネル群」として、春秋に期間限定で公開されており、先日、愛知県方面旅行のついでに立ち寄りましたが、かなりの賑わいでした。昨年の武田尾ハイクを思い出しましたが、こちらはNPOが運営されており、坑口に吊るされたD51の原寸大暖簾やら汽笛の音響など、いろいろ凝った趣向もありました。
    皆さまが仰られるようにレンガのトンネルは味わいがありますね。
    今度、明智へ向かう際に通られる定光寺を出てすぐの現トンネルの右、川側が旧線ですが、車窓からは見えなさそうです。
    http://aigi-tunnel.org/

    • 宇都家さま
      「愛岐トンネル」へ行かれましたか。熱心な方がおられるようで、よく公開のニュースは聞いています。関西でも、大仏鉄道跡では、保存・公開活動に熱心で、新緑のこの時期、ハイキングを兼ねたツアーは人気があるようです。
      愛岐トンネルの前後は、中央線の車窓からも見えますが、煉瓦トンネル跡までは見えないようです。私も明知ツアーに参加しますが、廃線跡だけでも確認したいと思っています。

      • 当日は気づかなかったですが、定光寺の名古屋方の旧トンネルなら車窓から見えるかもです。

        大仏鉄道の遺構も一度見に行きたいと思います。

        • 宇都家さま
          情報、ありがとうございます。今週末には、私も明知へ向かいますので、定光寺駅の手前を注視しておきます。

  4. 総本家特派員殿
    「ねじりまんぽ」など京都に残る明治の鉄道遺構の様子を興味深く拝見しています。近代化遺産としてのレンガ構造物は、これはこれでひとつの研究分野であり、この道の大家が何人もおられて、多くの専門書が出ています。鉄道総合技術研究所の小野田滋氏著の「鉄道と煉瓦」によりますと、京都・大阪間の建設に伴って、京都府葛野郡川田村大字川島に煉瓦製造所が設けられていたそうです。現在の西京区川島あたりのようです。煉瓦そのものは明治以降に外国から入ってきたものではありますが、元々瓦職人がいたり陶器の技術があったことから、短期間に外国の技術を吸収したようです。当初は外国規格の寸法で作られますが、当然ながら煉瓦はすべて手積みですから、手の小さい日本人には外国規格は普及せず、ひとまわり小さいサイズの煉瓦が日本の規格となってゆきます。アメリカで発達した労働生産性の評価理論の原点も煉瓦積み作業の観察から始まっています。いかに楽に能率よく煉瓦を積み上げるか、低い場所では差がなくても、だんだん高くなってゆくと、作業方法によって生産性が違ってくるということです。煉瓦のトンネルや橋台を見ると、つい建設当時の作業風景を想像してしまいます。レンガだけに固い話になりましたが、鉄道土木も奥が深いですね。

    • 西村様
      これらの鉄道遺産の探索については、井原さんの地元レポート、乙訓老人の情報、それに西村さんから見せていただいた三原市の産業遺産レポートが背中を押してもらいました。クローバー会の皆さんのお蔭です。桂川沿いに煉瓦製造工場があったことは聞いています。いまの桂川左岸にあったようです。これは、のちほど報告しますが、桂川橋梁の煉瓦橋台に、見たことのない刻印があるのを発見しました。ひょっとして、この煉瓦工場のものではないかとも思っています。

  5. 岸和田にもかつて大規模な煉瓦工場があり、トロッコ線も有していた、と和泉の歴史博物館の鉄道関係の企画展(若干あやふやですが)で見たのを思い出し、ググってみたところ、今出川キャンパスの校舎のレンガも岸和田産とのことです。

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