関三平先生の「昭和の電車」で、やっと京都市電の600型が取り上げられました。600型は当時としては最先端の“流線型”市電として、その後の市電デザインを先導したと言える傑作市電です。
ちょっとウンチクを少々。
600型は95両作られましたが、85両が戦前に、10両が戦時設計で作られたため窓の数などが違います。そのほか物資不足からデザイン上の装飾も違い、優雅な戦前型と貧相な戦後型(就役が戦後)は見れば分かります。因みにベージュとグリーンのツートンカラーになったのは600型からです。
この記事にあった「爆走」は、烏丸線でも見られました。今出川から丸太町までの御所の西側を下るときに、車体を“ガンガン”いわせて暴走したのを覚えています。
600型登場記念に手持ちの写真をご覧に入れます。皆様も、600型の写真があれば見せてください。
まずはトップナンバーの601です。
窓数は戸袋を含めて8個、車長は10.7m。窓廻りは水切りを兼ねた棒線で飾られています。車体中央の台車と台車の間には腰板が下がる、スカートが付いていました。方向幕は左右のルーバーとほぼ同じサイズで小さいものでした。私が市電に興味を持った頃には車体の更新が進み、方向幕は大きくなり、スカートは切り取られていて品がなくなっていました。その頃の写真を撮っていなかったことが残念でなりません。
続いてラストナンバーの695です。
窓の数が戸袋を含めて9個、全長は11m、中央部のスカートは最初からナシ。窓廻りの装飾物も省略。
投稿後に気がついたことがあります!
よく見ると軌道が鉄板に覆われています。これは当時阪急が河原町への延長工事中で、オープンカットで昼は鉄板で覆い、夜間に必要なところをはがして土砂や資材の搬入・搬出に利用していました。今となっては貴重な写真かもしれません。
デジ青の皆様こんにちは。準特急様のお世話になっている者です。何か御礼をと考えていたところ、米手様が、京都市電600形の写真を募っていらっしゃるのを目にしました。間接的ではありますが、良い機会と存じ投稿しようと思いました。しかし流石に「青信号!」、探している間にドンドン進行するのですね。遅くなり、過去の話題になりましたが、ご参考となれば、嬉しく存じます。
しかし私は、梅小路へは数回行きましたが、京都市電の写真は撮っておりません。友人の写真をお目に掛けましょう(お許しは得てあります)。昭和30年頃の撮影と聞いています。米国の友人、Gordon Davis氏の603号。これは、京都駅の西にある跨線橋上でしょうか?
宮崎繁幹様、
ご投稿ありがとうございます。
この写真は京都駅の東側、伏見線が国鉄をまたぐ高倉陸橋です。初期の風格を残す、いい写真です。ちょうど603号の後ろ辺りに現在は京都市立芸術大学が建設中で、もう少し手前の陸橋登り口には有名なラーメン店が並んで盛業中です。
米手 様
早速に、撮影地を教えて頂き、有難うございました。手元には、未だ600形の写真がありますので、あと数回紹介させて頂ければと存じます。この写真は、亡くなった小生の友人、山本明弘さんの撮影です。彼は、写真は見れば判るだろぉ~、と云う調子でした。その為、データが全然ありません。「撮影日は?」と聞いたら、セミ判密着は、昭和30年前後、35ミリ版になったのは、33年位からだ、てな具合でした。従い京都市電の写真は、セミ判なので、昭和30年頃です。
押しかけで恐縮ながら、地元の同志社の皆様に場所が御判りなら、教えて頂きますよう。どうぞ、宜しく。
宮崎繁幹様
写真とコメント有難うございます。京都市の600形は綺麗な小型路面電車という印象でしたが皆さん興味や思い出があるのか多分コメントの数としては新記録と思います。先日は銀座での宮崎さんを始め稲門鉄道研究会の皆さんの立派な写真展を拝見させていただきました。有難うございます。次回も楽しみにしております。
準特急様には、稲門鉄研写真展へお越し頂き、有難う存じました。次回は、来年6月の予定です。同志社の皆様と同様に、私どもも元気なOBの集まりです!
京都市電600形は、人気抜群とのことなので、もう一枚、山本明弘さんの記録をお目にかけましょう。622号です。これも場所が判りませんが、京都の皆様には、一目瞭然かもしれません。
米手さま
ついに出ました京都市電、関先生も大学時代に通学されていただけに思い出も一入でしょう。600形のトップナンバーとラストナンバーの写真も拝見しました。きっちり記録されていること、さすがです。私は、この歳になると、車両よりも、背後の街並みが気になります。二枚とも、どこなのか、にわかに思い出せません。撮影場所もご教示ください。
お褒めを頂きまして恐縮です。
が、いつもの通りいいかげんなスナップです。
601を撮ったのは七条大宮の西です。695は四条堀川の西、後ろに見える「トリ・・・」の看板は当会大先輩のご実家です。
特派員さんの600型もお見せください。
米手さま
七条大宮と四条堀川でしたか。七条大宮は何となく米手さんのお宅の近くかと思いましたが、四条堀川は分かりませんでした。「トリ・・」の看板は、大先輩の家でしたか、そう言えば、以前に大先輩が家の前で撮られた市電の写真を数十年ぶりに公開されたこともありましたね。
600形については、私より、乙訓の老人様が、全盛時代を記録されています。別の機会にぜひ紹介させていただきます。
特派員様、
絶対ですぞ!
楽しみに待っておりますよ!
ところで「名代・もん平」とは何者かとのお尋ねにお答えいたします。答えは「今川焼き」「太鼓焼き」または大阪特派員さんの近くでは「巴焼き」ともいうモノです。決して怪しいモンではありません。
米手さま
“絶対ですぞ”と念押しされて身構えています。乙訓の老人は、昭和30年代後半の京都市電の全盛時代をきっちり記録されています。その多くのネガも預かつていますので、少し時間をいただき、順次、「た~ちゃん」シリーズで紹介していきます。
米手作市さま
京都市電。小生も深い思い出があります。
以前ピク誌に京都市電についての記事を投稿しましたが、結果としてイワユル『深堀り』が足りず、『京都市電を知る方々』が苦笑しておられるのでは、と恥じ入った事がありました。
その時、京都市電にカテナリー式の架線部分が有るのに気付いて調査した事がありますが、調査未了で記述をカットした記憶があります。
ところが、今回の貴殿が投稿された601の写真で、俄然カテナリーが蘇りました。
通常市電などの市内電車はトロリー式との先入観が有り、京都市電のカテナリーが何故なのか、他の都市の市内電車にもカテナリーの例が有るのか『深堀り』すればキリが無いでしょうね。
河 昭一郎様
全く気にしておりませんでした。
ご指摘を頂き、手持ちの写真を見ましたが、市内各線はほとんどがトロリー式の一本架線でした。カテナリーは七条線だけが確認できました。それも交差点ではトロリー式に変わり、通過後にカテナリーに変わっています。全線で確認していませんのでこれ以上はわかりませんでした。
交差点を含んで架線方式が変わるところを偶然撮った写真がありますのでご覧ください。(七条大宮交差点)
米手作市さま
カテナリーについて考えられる事は、先ずトロリー式より高速対応性が良い⇒その区間ではトロリー式区間より高速が出せる事でしょう。(ビューゲルとトロリー線との接触率は当然カテナリー式の方に軍配が上がります。)
しかし、物事は何でも利点が有れば必ずその裏に欠点が有るもので、この場合敷設費用が高くなる筈で、更にはメンテの厄介度も違うと思います。
京都市電が何故そんなにスピードにこだわったのか疑問が湧きます。
貴殿が仰せのカテナリー区間でも他線との交差点ではトロリーに成って居た件、確かに交差点でのカテナリー式とトロリー式の1本線との工作は難しそうです。
さらに、カテナリー式同士の交差架線は複雑過ぎますので、共に交差部分については工作が単純なトロリー式にしたと考えられます。(たしか阪急の西宮北口も交差部分はトロリー部のみになっていた様な。)
ところで市電のカテナリー式区間ですが、以前小生が調べた限りでは北大路線、七条線、東山線、今出川線、九条線に見られました。
600型、学生時代良く乗らせて頂きました。ちょっと小ぶりで独特の美しさがあったように思います。
米手様の蘊蓄、改めて敬意を表させて頂きます。そうやったんや!
爆走的なシーンは経験があります。今はNGでしょうけど!そういう時代やったんや!?
マルーン様、
思い出してくれましたか!
烏丸線の京都駅方面は、今出川を下ると交通量も交差点も少なく、市電にとってはストレス発散のいい線区だったのでしょう。ノッチを入れたらすぐに切って、後は惰力で中立売までノンストップです。晩秋には市電の最後部に乗れば御所の枯れ葉が舞っていました。はしだのりひこ君の「風」を聞くといつもこの風景が目に浮かびます。関先生の画は、たぶん葵橋の北側を北上中ではないでしょうか?簡易裁判所や下鴨神社の森が見える場所です。
でも、この600型が一台も保存されていないことが悔やまれてなりません。
京都駅前 更新前の639号です。1963年11月10日 準急「比叡」で京都に着き駅構内の国電や駅前の市電を写しました。いつも見慣れていた名古屋市電より優雅なスタイルの京都市電に魅入られたことを思い出します。
失礼しました637号です。
これこれ!
方向幕が小さく、向かって左側の窓は経由地が表示されていましたが、それをふさいでいます。車体中央のスカートが残っている、これぞオリジナル車体です。
INUBUSEさん、よくぞ撮っていてくださった!ありがとうございます。
大半が1600型にワンマン改造されたなかで、九条車庫には原型を留めた600型がおりました。昭和44年 伏見線肥後町での603号のカットです。
西村様、
カラーの写真はもとより、肥後町の虫籠窓(むしこまど)風景、“丹頂鶴”電話BOX、専用軌道など懐かしい想い出をありがとうございます。
米手作市さま
話題は600形なのに、話を架線に飛躍させ、自分でも『アレ!』と反省しながら、又また精神分裂症の如く京都市電の疑問が湧きます。
それは、京都市電の車両形式の事で、500形⇒600形と数字が増え、800形、900形、1000形と相似デザインの車両が増加しましたが、その時点では700形が飛び番となっていました。
しかし、続いて『最後に』デビューした一風違う車両には前もって予定空き番として取って置いたかの如く、番号が逆行して700形と付番されましたが、それには何か『意味』が有ったのでしょうか?(『考え始めると夜も眠れない』=笑)
トップの関三平氏の記述で600形が時速60キロで走ったと書かれていますが、性能的に絶対あり得ません。蛇行してスピード感が高かったからそう感じたのだと思います。
実際どのくらい速度が出たのかですが、小型の車体で軽量とはいえ戦前から終戦直後製の回らない電動機を積んだ600形は時速にしてせいぜい35キロが限界だったはずです。
砂糖と塩さま
確かに性能的にはその程度のスピードが限界だったかもしれませんが、それは平坦線や多くの乗客を乗せていた場合のことで、下り勾配線ではもっと出ていた経験をしたことがあります。ただ市電には速度計はついておらず、以後の記述はあくまで感覚的なものがベースです。スピード感は仰るように揺れや走行音等によって大きく左右されるもので、速度が何㎞かという具体的な数字はこの際余り意味をもたないと思われます。こういう視点で関先生のご解説を読むと、下鴨線も緩い下り勾配だったことから、60㎞だったかどうかは別にして、かなりそれに近い速度が出ていた可能性は、後述の経験と照らし合わせて十分にあると思います。
小生が丁度市電で通学していた頃はキンカクシいや金閣寺の南の「わら天神前」に住んでいました。近くには市電路線中で恐らく最急勾配区間の部類に属するであろう千本北大路前後の急勾配が存在していました。しかし意外なことにこの急勾配では本題同様の爆走を経験したことはほとんどありません。思うに運転手氏にもここで爆走した場合の結果がわかっていたからではないかと想像します。それでも数回はトバされたのを経験しましたが、特に千本北大路→金閣寺前間は線路状態が悪かったため怖い想いをしたものです(ちなみに千北→船岡公園前間は交通量も比較的多く、爆走経験はありません)。また別の時に小生が見聞したのは金閣寺前→わら天神前間の下り勾配区間でのことでした。期末テストの時など昼頃に下校することがありましたが、ちょっとトバしの運転手に当り、加えて自動車が少ない時にかなりの速度が出たことがありました。電車が何型だったかはもう忘れましたが、関先生の時と同じく左右に大きく蛇行動を繰り返し、車内にはつり革音頭が鳴り響いていたのをはっきり憶えています。また尤も危険だと感じたのが午後10時頃に飼い犬の散歩時に見た光景です。市電が金閣寺前から猛スピードで下って来る異変に気が付いた時に見た感じでは60㎞は優に超えていたのではと思われます。わら天神前電停近くになっても速度が落ちず、恐らくコントローラーを逆に回して電制(大型電車のような緩い電制ではなく、機構は知りませんが急制動用?)と急ブレーキを同時にかけたらしく、車輪が停止してレールとの間で火花を出しながら(いわゆる滑走状態)、電停を半車分行き過ぎて交差点に突っ込んで停まりました。交通量の少ない冬場の夜間でしたから事なきを得ましたが、あれは道路が空いているからちょっと出したというようなものではなく、何か故意に例えば限界確認のためなどにやったのではと思えるほどでした。よく脱線したり車に衝突しなかったものと、今でも思い返す度に冷や汗ものだと思います。
半世紀も前のつまらぬ事をよく覚えているものと我ながら呆れますが、久しぶりに懐かしい市電に纏わる情景を想い出させて頂きました。