C58④ まとめ
今まで紹介できなかったC58をランダムに紹介していきます。準特急さんが記しておられるように、C57なら番号ごとのスタイルが気になるのに、C58に至っては、十把一絡げで、番号を意識することはありませんでした。北海道のC58をまとめていても、たしかに一両ずつの個体差を意識することは少ないものの、それだけ、中庸で、穏やかで、いかにも日本の風土に溶け込んだ蒸機だと改めて感じました。温暖で純日本的な風景の方が似合うかも知れませんが、北海道の厳しい自然のなかで、逞しく生き抜いたC58に、また新たな魅力を感じたものです。
▲昭和44年8月、青函連絡船で早朝の函館に着いて、カーブしたホームで最初に写したのが、函館発上磯行き751レを牽くC58 213〔五〕だった。上磯まではわずか27分で、わざわざ客車列車を仕立てるのは、折返しの函館行きが通勤時間帯に当たるため。江差・松前線の旅客はほぼDC化されていて、C58が牽く客車列車は2往復のみで、貨物も牽いていた。五稜郭区には、8両のC58が配置されていた(昭和44年8月)。
▲こちらは、苗穂区のC58 421 C58は427号がラストだから、最後期のカマとなる。この当時は、デフの切り詰めもなく、ロッドが下りて、戦後製の特徴もよく分かる形式写真が撮れた。苗穂には5両のC58がいたが、用途がよく分からない。本線で客貨を牽いた姿は見たことがなく、結局、近隣の入換に使われていたようだった(昭和43年9月)。
▲釧網本線塘路で、「大雪1号」「しれとこ3号」と交換する、釧路発網走行き630レを牽くC58 127〔釧〕 釧路・北見区のC58のタブレットキャッチャーはナンバプレートを塞ぐように取り付けられていて、番号の確認ができない(昭和44年9月)。
▲釧網本線標茶を発車する、釧路発網走行き630レ、C58 127〔釧〕、当時の標茶は、標津線が分岐していて、機関区設備もあって、鉄道の要衝として賑わっていた。私も標津線に乗り換えて、根室標津まで行き、国後・択捉島の見えるユースに一泊した。
▲根室本線厚床に到着の釧路発根室行き447レ、C58 385〔釧〕には後藤デフが取り付けられている。米子区に配属の時代があって、この時にデフが換装された。当機の廃車後、デフだけがC5833に移されて、JNRマークも取り付けられて、晩年の北海道の名物蒸機となった(昭和44年9月)。
▲根室本線落石で交換する、貨物1482レを牽くC58 319〔釧〕 最初は四国の多度津区にいて、あと北海道へ移った。こんな寒駅にも、ちゃんと貨物ホームがあったことが見て取れる(昭和44年9月)。
▲朝の釧路駅、ナンバーが隠れたC58 413〔釧〕 左の青帯車は夜行の「狩勝4号」、私も同列車に乗って釧路に着いて、C58413の牽く632レに乗り換えたところ。「狩勝4号」は“上級”急行で、普通車は全車指定、自由席のみ利用可の均一周遊券ではそのまま乗ることができず、急行券300円、指定席券300円を大枚支払って乗った。
▲その「狩勝4号」の入換を行うC58 412〔釧〕 よく見ると、主灯の左にあるはずの補助灯が、この機は右に付いている。何か特別な理由があるのか、間違って取り付けたのかは不明。右は釧網線627レを牽くC58 413で、続き番号が並ぶ(昭和47年3月)。
▲釧路湿原の真っ只中を行く、網走発釧路行き623レ、「ワ」だろうか、ポツンと一両挟まれた黄帯の貨車が愛らしい。細岡~遠矢 (昭和47年3月)
▲丸一日、細岡~遠矢で写して、陽が暮れて駅に戻ると、C58 413〔釧〕の牽く627レが到着した。細岡 (昭和47年3月)
▲627レが待機するなか、ライトを点灯させた632レが到着、細岡 (昭和47年3月)
▲根室本線浜中で交換する貨物1481レ、牽引はC58 119〔釧〕 (昭和47年3月)
▲夕暮れの釧路駅、C58 98〔釧〕が釧網本線638レを牽いて発車する。同機は、深川市のレジャー施設に保存展示されている。(昭和47年3月)
▲北海道最後の夜は、連絡船まで時間があると、五稜郭機関区の夜間撮影へ。主役はもちろんD52だが、C58もしっかり撮影する。C58 126〔五〕 (昭和47年3月)
前にも一度投稿した写真なのでためらったのですが、特派員さんが敢えて採り上げておられるので厚かましくも二度目の投稿をお許しください。
米手さま
後藤デフのC5833、ありがとうございます。前にも投稿された写真と言うことですが、私は初めて見たようです。前に投稿した写真でも誰も覚えていない(?)ですから、いい写真は何度でも見せてください。
さて、この写真は、いつ頃の撮影ですか? あとの紫さんの解説では、昭和46、47年ごろに換装されたとありますので、今までの北海道の写真より、後年のものですね。ナンバープレートにも色が入っているようです。
何も記録しない私も、これだけは覚えています。昭和49年3月網走での撮影です。
恥ずかしながら新婚旅行での写真です。
米手さま
やはりそうでしたか、時期的に見て、撮影旅行とは考えにくく、新婚旅行かなと思っていました。別に恥ずかしがらないでください。私もその3年後、新婚旅行で札幌を歩いていると、目の前を北海道警のボンネットバスが現れて、街中を走り回って撮ったことを思い出しました。
それ以来、家内には新婚旅行(3月15日出発・道東一周)は自分の趣味のための旅行で、雪一色の中、鉄道に乗ってばっかりやった!と根に持たれて困っています。
道東のC58を堪能させていただきました。私が渡道した頃には、すでにC58を見ることができず、それもほんの数か月の差でしたので、ずいぶん悔しい思いをしたものです。
おっしゃるとおりC58は人気がなく、番号だけで特徴を言えるのは33号機だけでした。ですが、同機最大の特徴である後藤デフが、385号機から譲られたものとは知りませんでした。「鉄道ファン」で見る写真は後藤デフにJNRマークを付けたお馴染みの姿で、ずっと前からそうだったと信じ込み、疑う余地はなかったのです。
それではデフが変わったのはいつのことなのか、気になって仕方がありません。まず385号機の廃車がいつだったのか、これがはっきりしません。1973年○○月とする資料と、1973年10月とする資料があります。385号機の写真を検索すると1971年7月23日では後藤デフですが、1972年3月11日には標準デフに変わってました。この間に33号機とデフの交換をしていたようです。更に、1971年8月20日ごろに交換されたとする記事も見つかり、この頃に移設されたようです。
細かいことをもうひとつ。9枚目の細岡―遠矢間で撮影された623レですが、C58次位の貨車はワ12000形で、釧路工場の配給車代用ワ12366ではないでしょうか? 配給車と言えば客車の「オル」を連想しますが、貨車も数形式使用されていました。ワ12000形は10トン積みの小型車で、使い勝手が良かったのでしょう。また、車体の帯は「白」でした。宗谷本線で撮影した貨物列車に白帯を巻いた小型貨車が連結されていて、気になって調べたことがあったのです。
重箱の隅を楊枝でほじくるようで申し訳ありませんが、気が付いたことを書いておくのも当時を知る一人としての責任ではないかと、大それた考えを持ってしまいました。
デジ青をきっかけに、これまで気にも留めなかったことが無性に気になり始め、あれやこれやと調べるようになりました。昔は写真を撮るだけで満足しておりましたが、知らないことの連続です。
鉄道趣味は奥が深いですねえ。
紫の1863様
9枚目の写真は、私も配給車代用のように思います。この写真でもわかるように、客車が貨車に挟まれる場合も多く、機関車からの暖房管を通じた蒸気が来ないため、それぞれの客車は、床下のウエバスト式暖房機(石油温風暖房機)で暖をとっていましたね。しかしやっぱりスチーム暖房の方が温かかったように思います。でも寒風にさらされ、ろくな食事もとらずに歩き回って冷え切った体には、乗り込んだ客車の温かさは格別でした。私の3度の北海道鉄旅は期末試験の済んだあとの2~3月ばかりでしたので、冬の想い出ばかりです。
紫の1863さま
西村雅幸さま
コメント、ありがとうございます。C58の次位は、貨車の「ワ」ではなく、配給車代用の「ワ」だったのですね。たしかに、北海道には白帯を巻いた、代用貨車がいました。私も宗谷本線の貨物で写した記憶があります。
C58385のデフの件、私は廃車後にC5833に移設されたと思っていましたが、現役の頃に、デフだけを交換していたのですね。検査の期限がC5833のほうが先にあることを見越して、貴重なデフを残すために交換したのでしょうか。
釧路駅で写っている「狩勝4号」のグリーン車はスロ54ですね。特2の白眉はスロ54かオロ11だけれど、10系は耐寒構造が弱くて、寒冷地を走る列車からは避けられました。この年から1等車→グリーン車改称で、14系が渡道するまで生き残っていたのには驚きました。
塘路の「大雪」+「しれとこ」が2連どころか6連のキハ22で定期「急行」として一般色で走っていたことも衝撃です。キハ56/27が全然足りなかったのでしょうが、道内交通が活発な時代は、優等列車を増発優先で、掻き集めた車両で「急行」を走らせても道都札幌に向かう利用客は誇らしかったのだと思います。
昭和43年が北海道開基100年で記念切手まで発行されました。あの頃の北海道を旅したいという懐かしさは募ります。