常紋に挑むD51
前回の本稿では“ナメクジ”のD51を石北本線の常紋信号場付近でよく写したと書きましたが、そうは言うものの、圧倒的に多かったのは、標準型のD51でした。常紋は北海道では代表的な撮影地で、私も9月に二度、3月に一度行っています。9月は、いずれもC62重連の撮影のあとに行っていて、正直、D51を見ても感動はイマイチでしたが、C62が消えたあとの3月の時になると、DD51も入線し、トラ模様の9600も増殖していて、逆にマトモなD51も貴重になっていました。
常紋へ行く時は、夜行入りが必須で、食糧が手に入らないのは分かっていても、ほとんど食事なしの撮影で、睡眠不足、空腹という、撮影気力を低下させる二大要素を抱えたままの常紋行きで、結局、大した写真は残せずに終わりました。それだけに、今となっては、当たり前のD51も愛おしく思えて来るのです。▲急行「石北」に乗って遠軽で下車し、始発の523レに乗り換えて6時45分ごろ常紋(信)に着くと、まもなく上って来るのが590レだった。木造の小さなホームから見ると、Sカーブ上を、D51 157〔北〕が牽き、後補機9600を従えて、逆光線上にシルエットとなって迫って来た。このあと、信号場に挨拶に訪れて、リュックを置かせてもらい、トンネル内の電灯を点けてもらって、生田原側にある噂の常紋トンネルを抜けて行くのが、私の時代の常紋撮影の仕儀だった。D51 157は昭和48年に廃車されたあと、上川町で保存展示されていたが、のちに解体された。(昭和44年9月)
▲25‰の下り勾配を軽快に走るD51 318〔北〕 網走発小樽行き522レ 唯一の貨車なし、客車のみの列車だった。常紋(信)~生田原(昭和44年9月)▲3573レを牽くD51 425〔北〕 副灯が他機より少し大きい。昭和48年に廃車になっている。金華~常紋(信) (昭和44年9月)▲スイッチバックの常紋(信)で行き交うD51 右:3570レが停車中、左:旭川発北見行き527レが停車後に引上線に入ったあと本線を下って行くところ。D51 608〔北〕の牽引、貨物列車のようにみえるが、しっかり後部に客車がいる。(昭和44年9月)▲信号場の木造ホームから、上がって来る北見発上川行き532レをとらえる。D51 608〔北〕の牽引、このように貨車が少なめのほうが混合列車らしい。(昭和44年9月)
▲信号場の引上線で交換するD51同士 左:531レ 旭川発網走行き531レ D51 7 〔北〕 右:上掲の混合列車532レ(昭和44年9月)
▲これが、常紋信号場の超お手軽撮影地、木造のホーム。本線を上がって来る列車を俯瞰撮影できる。信号場であるものの、ほとんどの列車が客扱いし、一両程度のホームが設けられていた。撮影者がクルマに乗って常紋に行くなど夢にも思わなかった時代、撮影者の便宜となった。撮影者が数人、拡大して見たら、全員がDRFCのメンバーだった。(昭和44年9月)▲信号場の助役が発車合図を出すと、D51 511〔北〕は汽笛を吹鳴し、ゆっくり発車して行った。574レ(昭和44年9月)▲空腹を抱えて、ユースホステルのある留辺蘂に到着すると、ひとまず駅の売店で食糧を調達してやっとひと息できた。遠軽発網走行き523レ D51 950〔北〕(昭和43年9月)
昭和46年くらいに定紋越えの9600+D51の写真が旺文社の中2コースで見た記憶があり、とても懐かしく、石北本線のSLを見てはいないのですが、どんな実態だったのかを詳しく拝見しました。非常に感謝です。
留辺蘂(るべしべ)の地名もその頃時刻表で見て覚えた記憶があります。そのグラビアの折り込みの裏がヒットソングの楽譜だったので、六文銭の「インドの街を象に乗って」って曲はいつ頃か調べてみました。すると私が写真を見たのは47年の6月頃だったことが判りました。
ありがとうございました。
コメント、ありがとうございます。「留辺蘂」と言う難しい駅名にも、遠い時代の記憶がよみがえります。小学校の5年か6年の国語の教科書のなかに「留辺蘂」の名があったのです。タイトルや内容は全く覚えていませんが、「留辺蘂」と言う一風変わった地名は、以来、ずっと残っていました。何か手掛かりはないかとネットで調べると、いま生きていたら百歳になる、児童文学者が書いた「留辺蘂の春」という本がみつかりました。
ご紹介有り難うございます。早速図書館で、今西祐行著「留辺蘂の春 マタルペシュペ物語2」を予約しました。読んでみます。
留辺蘂然り北海道の地名は独特の響きがありますね!
北の大地での懐かしい面々の勇姿が懐かしいですね!
「留辺蘂の春」が図書館にもあるのですね。小学校の時、「るべしべ」と言う独特の響きを持った地名を聞き、未知の北海道に思いを馳せたことを、今でもはっきり覚えています。同書が、教科書に載ったものかどうかは分かりませんが、一度、あらすじなどをお聞かせください。
常紋信号所のD51を堪能させていただきました。渡道を夢見て架空の撮影プランを立てて楽しんでいた中学生の頃、常紋は定番の撮影地でした。しかし、渡道を果たした昭和49年に、常紋を訪ねることはありませんでした。9600がDE10に変わったことに加え、撮影できる本数が限られていたことなどが原因だったようです。
留辺蘂には泊ったことがあります。蒸機が消えた昭和51年の夏、摩周・阿寒を観光した後、翌日に層雲峡へ行くバスが出る留辺蘂を宿泊地に選んだようです。旅館のあてもないまま駅前を歩いていると、土産物屋のおばさんが近くの旅館を紹介してくれました。私としては助かりましたが、いくらかの紹介料を貰ってたのでしょうね。
D51 950の右手に貯木場が見えますが、石北本線には広い貯木場を持つ駅がいくつも見られましたね。留辺蘂にはかつて温根湯森林鉄道があって、層雲峡の方へも線路を伸ばしていたとか。もちろん訪問時は知りませんでしたが、今になってわかることも沢山あります。長物車や無蓋車に積まれた原木の行き先は、新旭川の国策パルプ(現日本製紙)だったようで、新旭川駅前には「パルプ町」という地名があるほどです。
現在の留辺蘂をストリートビューで見ると、すっかり変わってしまいました。駅前は奇麗に整備されましたが、観光客目当ての店は見当たらず、時代の流れを感じます。旅館がどこにあったのか、もう探すことはできません。
紫の1863さま
留辺蘂の思い出、ありがとうございます。私の場合、留辺蘂の宿泊は、留辺蘂ユースホステルでした。いつも、常紋の撮影後の宿泊ですが、記述のように、空腹を抱えてのユース入りでしたが、夕食が何とも待ち遠しかったことを覚えています。ユースの様子は全く記憶がないのですが、営業はしていないものの、建物はそのまま残っているとサイトに開設がありました。
高齢者を対象にした「趣味人倶楽部」というサイトに、「思い出のユースホステル」というコーナーがあり、この留辺蘂ユースの事も書かれていました。
私も一昨年、約50年ぶりに留辺蘂を通りました。快速「きたみ」の先頭に陣取って駅の進入を写しました。木材の搬出で賑わった面影は全くなく、人影すらありませんでした。