【97194】 東海道線開業時の面影を巡る 桂川~西大路~京都 ④

桂川橋梁の探索を終えて、線路沿いを東へ歩きます。葛野大路通を越して、西日本JRバスの京都支店・営業所の前まで来ると、西小路通を越すところに橋梁があります。架道橋のように見えますが、銘板を見ると「長池川橋りょう」とあり、かつて、ここに川が流れていたことを偲ばせます。西小路通りは、北側のGSユアサ工場の横で屈曲しており、道路としては不自然な曲がり方で、この道路の下にいまも暗渠として残っているのかもしれません。橋梁は約11mの長さ、上り線の橋脚は、基礎部は切石積み、上部は煉瓦積みになっていて、明治9年の開業時のものと言われ、切石積みなどは、後年に改修されたと思われます。
煉瓦積みの橋台が残る、長池川橋梁の上り線。下り電車に乗ると西大路駅を出てすぐの直下にあり、開業時の煉瓦積みが、ひっそり残っていた。

7 煉瓦積みの橋脚が数基
さて、くだんの橋梁、銘板を見ても長池川橋梁だが、鉄道土木史研究家の小野田滋氏の論文のなかにある橋梁一覧表では、種別が“避溢橋”になっていた。開業時は、前々回に紹介の桂川右岸の避溢橋と同じく、長池川の氾濫に備えて、水を逃がす役目も持っていたようだ。たしかに、現場を見ると、橋脚は3脚、うち西小路通りは、ごく狭い幅であり、あとは、草叢が広がっており、この部分が“避溢”の役目を負っていたのだろうか。
洪水時に水を逃がす“避溢橋”の面影が残る、長池川橋梁上り線の東側。

またすぐ東側、ちょうどワコール本社前にも小さな橋梁があり、小野田氏の論文では、高柴橋梁と記されたものと思われる。ここにも開業時の煉瓦橋脚が残っているようだが、現在は金網が設置されて封鎖されており、近づいて確認することはできなかった。その続きにも、下を西高瀬川が流れる第一吉祥院橋梁があるが、外観はすべてコンクリートで覆工されており、明治期の面影はない。

何かありそうな、向こう側の高柴橋梁、手前は新幹線の高架橋。▲▲西高瀬川の河川改修時に造り替えられた第一吉祥院橋梁。

8 旧線跡の煉瓦を転用? ナゾの擁壁

鉄道に関わる構造物ではないが、以前、クローバー会の模型運転会が近くであって、その前を通ったときから気になっていた物件だ。東海道本線の北側、公道をはさんだ北側にある、コンクリート製造会社、公成建設の擁壁である。ご覧のように、石垣で構成されているが、東へ行くに従って低くなり、石と煉瓦が混ざり合った姿になっていく。素人が急場しのぎで造ったような乱雑な組み方で、煉瓦も斜めになっている。石や煉瓦は重いので、用済みで廃棄されたとしても、その近くで再利用されるケースが多い。この近くのお寺の境内では東海道線開業時の煉瓦が再利用されていた。もちろん証明するものは何もないが、くだんの塀も、東海道本線の改良時に不要となった煉瓦が転用されたのではないだろうか。

乱雑な組み方が何か曰くを感じさせる、コンクリ製造会社の擁壁

9 超低い地下道をブッ飛ばす自動車

そのすぐ東側、御前通が東海道線を潜る五叉路に着く。当掲示板でも米手さんが思い出を吐露されていたマンプである。JRでの名称は西七条架道橋とある。煉瓦の橋台が両側にあり、現在では、白くペイントされているが、ところどころ塗装が剥げて、煉瓦が露出している。自転車・歩行者用通路と一線分の自動車道があり、信号によって相互通行となっている。限られた信号時間にくぐり抜けるため、車高制限2.4mのトンネルをブッ飛ばして行く。“超低い恐怖のトンネル”として名高いのは、東京の田町駅近くの高輪橋架道橋で、その高さは1.5mと言うが、それにも匹敵する、歩行者にとっては恐怖心を感じる地下道だ。
自動車が大轟音を撒き散らして、くぐり抜ける御前通の地下道。

 東海道線開業時の面影を巡る 桂川~西大路~京都 ④” への12件のコメント

  1. 特派員様、
    よく見ていますね!
    実は、コンクリート工場はよく通りますので、立ち止まって見ていますが、砕石や廃材を置いているので、それの一部だろうと思っていました。
    以前に乙訓の長老さんからお借りした古地図を現地図に重ねて、明治の東海道線と現在の東海道本線の位置を突き合わせたところ、旧線は北へ50mから100mほど離れていたことが分かりました。それが分かれるところが御前通りのマンプ付近でした。だから壁の煉瓦が旧線の遺構に使われていた可能性はあります。
    御前のマンプはどうして拡張と深掘りして歩行者や通行車が安全に通れるようにしないのか不思議です。京都市のキャッチフレーズは「歩く街・京都」なのにね
    参考に明治22年の“避溢橋”付近地図を貼ります。

    • 米手さま
      たいへん貴重な地図を見せていただき、ありがとうございます。開業時の東海道線は、現在の上り線に相当します。くだんのコンクリート会社のすぐ横ですから、その後の線路改修で出た廃材の煉瓦・石を使って、適当に造り上げたと考えると興味深いですね。もちろん資料などなく、想像の域を脱しませんが。
      古地図からも、いろいろ読み取れます。桂川が、今よりも蛇行していますね。大雨の時は、ちょうど避溢橋のあたりに水が押し寄せることになり、ここに大規模な避溢橋を設けたことが理解できます。

  2. 総本家青信号特派員さま
    桂川から始まった東海道線の遺構探訪記を興味深く読ませて頂いています。廃線跡が好きな小生ですが特派員さまほどの詳しい知識がなく、いつも通りすがりに眺めているだけで、そのためコメントも出来ませんでした。
    しかししかしです、話が西高瀬川に架かる第一吉祥院橋梁と御前通りのマンポに及ぶとなれば、もうコメントせずにはおれません。実は両者とも小学生時代の鉄道遊びのテリトリーだったからです。当時住んでいたのは第➂回投稿の地図中「No9:超低い地下道をブッ飛ばす自動車」キャプションの丁度「ブッ飛ばす」辺りで、キャプション下にある唐橋小(学校)に通っていました。以前にもコメントしましたが、少し北を走る東海道線の線路端とともに、帰宅後の遊び場でもありました。
    第一吉祥院橋梁はご説明の通り、西大路駅のすぐ西側にあり、現在はホームが延長されて橋梁上に伸びてきていますが、当時は橋梁東端までがホームでした。橋梁下は記憶では京都側2/3が川で大阪川1/3が狭い歩道でした。反対方向からの通行人や自転車が来ようものなら、スレ違いも容易ではなかったものです。また橋梁上に丁度レールの継ぎ目があったため、下り緩行線電車が発車すると、初めのうちは起動後なのでダン~ダンという通過音が、加速するにつれダンダンの間隔が早くなってゆきました。最初の騒音はまだ我慢できましたが、最後尾車両の頃になると耳を塞いでも聞こえるほどの轟音が狭い暗渠に響き渡っていました。特急(当時は滅多に来なかった)等の通過列車は轟音がひど過ぎてむしろ避けていたように思います。従って機関車の通過音は殆ど記憶にありません。緩行線電車の起動から加速してゆくモーター音と通過音を楽しんでいたのかもしれません。
    御前マンポには当時は歩道は無く車道だけでした。それだけに周辺地域の住人には「非常に危険なトンネル」との認識が浸透していて、小生も自転車で2~3回くらいしか通った記憶しかありません。ちょくちょく事故も起きていたようで、自転車で走っている時も、暗いこともあって怖くて仕方なかったですね。学校から「通るな」と言われていたように記憶しますが、はっきりとは憶えていません。
    長々と想い出話を書きましたが、久しぶりに鉄道に染まっていった頃の懐かしい想い出に浸れたことを感謝申し上げますとともに続編を期待しております。

    • 1900生さま
      詳細な思い出を聞かせていただき、ありがとうございます。1900生さんが幼少期、この付近にお住まいだったこと、以前にも聞かせてもらったこと思い出しました。私は逆にこの付近は生活圏ではなく、あまり縁がありませんでした。遺跡めぐりも、以前に行ってから約10年が経ち、再訪問しました。御前通の地下道は、中学生の時だと思いますが、自転車で通ったことがありました。暗く、狭い地下道で、少年の心にも、恐怖を覚えたことを思い出しました。

  3. もう一枚
    明治22年の御前通から京都駅付近図です。まだ旧線時代で大正に入って線路は南へ下がります。

  4. 総本家青信号特派員様
     「ねじりまんぼ」に続いて「マンプ」なる難解語が出てきました。大老、米手さん、総本家さん、1900生さん等々、皆さん京都人=都人であると気が付き、「京都弁でマンプとは?」と検索してみたら、まんぼではありませんか?と出てきました。検索続行!「マンポと呼ばれる理由は?語源は方言でトンネルという意味?」というhttp://kendamarider.com/667.htmlというサイトが出てきました。よう分かりました。結局語源は「間府」鉱山の坑道ではないかということでした。
     いろいろ勉強させて頂き有り難うございます。横道にそれてごめんなさい。

    • さすがのマルーン会長様
      “マンプ”と言い続けてン十年、いま意味が分かりました!
      「間府」からきたとは、目からウロコです。
      石見銀山へ行ったときに坑道が「まぶ」と言われていたことを思い出しました。
      やっぱり会長です。尊敬します!

  5. 本日、京都鉄道博物館へ行ってきました。別の用事だったのですが、5月19日(土)から「企画展 明治の鉄道人物伝 鉄道の夜明けを支えた14人の男たち」が始まっていて、展示物は
    ◆1876(明治9)年架設の初代桂川橋梁の写真・図面・橋脚部材レンガ実物
    ◆レンガがはっきり写った避溢橋の写真
    ◆東海道旧線膳所~京都間平面図
    ◆旧逢坂山トンネル、石屋川、住吉川トンネル図面
    ◆柳ヶ瀬トンネルの写真・図面
    ◆芥川橋梁図面
    などがありました。なかでも、避溢橋の写真はたいへんシャープでした。
    人物伝というわりには構造物の写真や図面が多く、7月16日までですので、皆様もおでかけください(入館料がちょっとキビシイですが)。
    マルーン様、柳ヶ瀬トンネルなどいかがですか。

    • 井原様
      情報、ありがとうございます。企画展のことは知っていましたが、構造物の展示もあるとは知りませんでした。いずれも興味深い展示です。ぜひ行ってみます。たしかに企画展だけ見るのに大枚払うことになりますね。博物館のように、常設展と企画展の入場料を分けてはどうかと思います。ところで“別の用事”とは何ですか?

      • 手持ちの資料を寄贈しに行きました。
        入館料はもうちょっとなんとかならないものでしょうかね。
        大宮の鉄道博物館は7月から値上げするそうです。

    • 井原さま
      柳ケ瀬トンネルは地図を見ると東口から西側の刀根集落まで「道路表示」なので、今でも通れると思われます。通れるのであれば探訪するのも面白いでしょうね。もうかれこれ半世紀近く前にぷるぷるさんの車で(確か米手さんもご一緒だったかも←不確か。以前にも思い違いでご迷惑をおかけしたので今回も自信はありませんが)通ったことがありました。当時は旧柳ケ瀬線の廃止後10年位の頃だったので、国鉄代行バスが走っていました。一般車も通れましたが、トンネル入り口にはバスの通過予定時刻が掲示されており、曰く「この時間帯はトンネル内で離合できないため、通過ご遠慮願います」とありました。
      この時はあわせて敦賀~今庄間の北陸旧線跡(通称杉津線)も探訪しました。丁度北陸自動車道の建設が始まった頃ですから、1975年頃ではなかったかと思います。下調べでは旧線後は走れそうなものの、その殆どの区間が北陸道のルートと重なっており、現地に行くまではたして通れるものかどうか半信半疑でした。結果はなんとか無事に今庄へ辿りつけました。廃線跡はまだそのままで、あたかも列車からの風景を彷彿とさせるもので大満足でしたが、カーブしたトンネル内で工事用ダンプカーと度々遭遇して後退を余儀なくされたのには参りました。廃線跡で唯一工事の手が入っていたのは杉津駅跡で、PA建設のためすでにだだっ広い更地になっていました。しかしそこから見た敦賀湾の眺めはやはり聞きしに勝る絶景だったことを憶えています。
      柳ケ瀬トンネル付近はおそらく公共交通は無い(485系を撮りに行っていた頃は敦賀側刀根までバスがありました)と思われ、アクセスに問題がありそうです。新疋田~木ノ本間は20㎞弱あり徒歩ではかなりキツイと思われます。参加人数にもよりますが、木ノ本からトンネル東口まではタクシー分乗という手もありますが。もうすっかり行く気になってます。

  6. 旧柳ケ瀬トンネル、現在は国道140号線となっていて誰でも通れます。但し普通車オンリー(大型も自転車も徒歩もダメ)で、双方の入口には「赤信号6分半」という信号があります。
    行くとすれば、敦賀あたりからレンタカー利用でしょうか。
    有志の方を募ってみましょう!

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