想い出の阪急京都線・・・①

この記事は河 昭一郎氏が以前に鉄道ピクトリアル誌に掲載されたものをデジタル青信号用に改めてご寄稿下さいました。
米手作市が代理で投稿致します。

阪急京都線が元々は阪急ではなかったのは有名な話で、そのルーツは京阪電気鉄道の子会社であった新京阪鉄道が1925(大正14)年10月15日に天神橋~淡路間を開業したのが始まりである。
後の1928(昭和3)年11月には京都(西院)まで延伸され、大阪(天神橋)~京都(西院)の直通運転が実現した。

その後、北大阪電気鉄道との合併によって十三~千里山間が編入され、その内の淡路~十三間が後の梅田乗り入れの足がかりとなった。
しかし、その後の社会情勢の変化により1930(昭和5)年9月15日には親会社の京阪電気鉄道に合併され同社の新京阪線となった。

この新京阪鉄道は名古屋までの延伸が念頭に有ったため、軌道法を超えた鉄道法に沿って建設されたため、軌道法の阪急とは規格が違いレールは50キロ級、架線方式についても高速対応のコンパウンドカテナリー式(但し、補助吊架線とトロリー線との間隔が広い変形)を採用していた。

写真:爆走する1519他4連の京都行急行・3両目に1550形が混結されている。(1963.7.18.富田)

②京都線誕生

戦時中には国策に沿った合併令によって京阪電気鉄道は1943(昭和18)年10月1日に阪急電鉄を主体とした阪神急行電鉄と合併する事となって、その名も京阪神急行電鉄となった。
ところが戦後京阪電鉄が分離される際、交通体系を淀川の右岸と左岸に分離する案に従って新京阪線は京阪電鉄から離れ京阪神急行電鉄(阪急)に属する事となり、ここに阪急京都線が誕生した。
これにより阪急にとっては棚ボタ式に京都への進出が成ったが、一方の京阪にとってはトラの子の高規格路線を失う結果となってしまい、当時の世間では色々と物議を醸したようだ。その影響も有ってか昭和30年代に沿線に居住していた筆者の印象では、沿線住民の間で『阪急』と呼ぶ者は稀で、圧倒的に『新京阪』が浸透していて『阪急』の名は馴染みがうすかった。

写真上:1509先頭の京都行2連(1962.8.15.総持寺) 


③ 新京阪の代表P6(100・1500形)

かつての新京阪には言わずと知れたP6が有って、電動車のデイと付随車のフイ及びフキが有ったが、昭  和30年代の阪急では夫々100形、1500形と成って70数両の大所帯で活躍した。なお、1両のみ存在した貴賓車の フキは格下げの上1500形に編入され、本来京都線方式のトップナンバーである1501とは別に特例的に1500を名乗っていた。

このP6が新京阪にデビューした当時は異例ずくめで、車長は19メートルも有ったのに加えて重量も50トン級の重厚さを誇り、電動車の出力も当時では破格の150キロワット電動機を4個装備した大出力であった。

その理由は、新京阪が当初から末は名古屋まで延伸する遠大な計画を持っていた事で、運用本数の増大化に備えると同時に長距離走行に耐える車両を意識した結果であった。

上記のように高い性能を有していたP6については次のような逸話が有名である。
上り電車が大山崎を出て直ぐ東海道本線を斜めにアンダークロスした後、同線を右に見ながら併走する約1Kmの区間があり、ここではP6が蒸気機関車牽引で最速を誇っていた特急『つばめ』を追い抜いたとの事である。

ただし、東海道本線が電車化された後の昭和30年代にはその場面を見る事は出来なかった。しかし、その名残りは充分あり、この当時4連で特急や急行が通過駅を走り抜ける様は正しく爆走に似た迫力があって、その姿は装甲車と言われた位の重厚感があった。

写真上:143他4連の下り急行・2両目に1550形が連結されている(1963.8.19.富田)
写真下:元貴賓車の1500(1962.4.28.高槻市)


④P6のスタイル

京都線を席巻していたP6と言われた100形、1500形は、どちらかと言えば角ばった外観をしたアメリカン・スタイルで、ヘッドライトも大形で厳つい感じだった。特に貫通幌が他には無い独特の仕様で、太目の幌枠の上下裏側の車体との間に板バネが装備されていて、他車との連結時には幌枠同士が押し付け合う機能があって編成の解結作業の合理化が成されていた。

この前面こそがP6のP6たる所以であったが、後年これが阪急標準に改装される事となって簡易な幌受け枠のみのスタイルとなり『軽~い印象』となって面持ちを一変させた。

また、当初のP6は母線の引き通し線を屋根上に敷設していて車端の屋根上にカプラーが設置されていたのが特徴的であった。

戦後の昭和30年代には実用しておらず、一部の車にカプラーのみが屋根上に残っている状態であったが、このカプラーは電車ファンの筆者にとっては他では見る事のできないスタイルだったため、大変奇異な印象を受けたものである。なお、現在ではこの屋根上カプラーは動態保存されているデイ116に復元されたのを見る事が出来る。

写真:典型的P6顔の103(1962.4.28.高槻市)


⑤ 阪急唯一の流線型(200・250形)

京阪電鉄の影響を受けていて、この流線型200形も京阪の1000形流線型車の影響を受けたと考えられる。

しかし、その形状は本家の京阪1000形とは違って『流線型』としては中途半端なデザインとなっており、何よりも全長が15mと言う小ぶりな車体や、電動機も93kwX4個の軽装備だった事から千里山線や嵐山線に終始せざるを得なかった。

従って、運用から推して本線での活躍を期待しない『流線型イメージ』のみの導入に終わったと言える。

写真上:201+251(1962.4.28.桂)   
写真下:京阪電車の流線型車1008(1963.8.23.中書島)


⑥ ダブルルーフの小型車(10・50形)
当時の嵐山線は古い小型車で固められており、ダブルルーフの電車が行き来する様はまるで電車の動態博物館のようであった。

この10形と50形は新京阪が開通した当初に導入された木造車がルーツで、後に鋼体化されて生き残っていたもので、それはまるで電車の文化財的存在であった。
当時の筆者には温故知新を地で行く絶好の体感材料で、桂駅で折り返す車両を長時間厭きずに観察したものである。

新京阪時代には10形はデロ10、50形はフロ50とも言われ夫々20両(Mc)と6両(Tc)が投入されたが、総称としてはP6に対してP5と言われた。

嵐山線では写真のように3両編成で運用され、車体巾が狭かったため両側の乗降ドア部外側にホームとの隙間を埋めるステップを設置していた。

写真上:16+56+15                                     写真下:56ダブルルーフが良く判る                                                                            共に(1962.4.28.桂)

 

⑦ もう一つの異端車(210・260形)

嵐山線には流線型の他にも210形と260形の稀少車が存在しており、鉄道ファンにとっては楽しみの多い線区であった。

一見920形以来の阪急スタイルに見える210形も、良く見ると似て非なる『顔』をしていた。特徴としてのアンチクライマーが無く、どちらかと言うと間の抜けた顔で、さらに車体長も15mと短かった。元は新京阪電鉄から継承した2両の貨物電車だったが、京都線での貨物営業廃止に伴って1956(昭和31)年に転用改造され、中間にT車を挟んだ211+261+212の固定編成に生まれ変わったものであった。

当初は千里山線に投入されたが、同線の大形車化に伴って嵐山線に転用された。

写真:212+261+211(1963.7.18.桂)

⑧ 阪急化の先兵(1550形 710・760形)

新京阪が阪急京都線となっても依然として70数両のP6の天下が続き、沿線の住民の間でも『新京阪』と呼ばれる有様だった。
そんな中、1949(昭和24)年11月には先ず5両の1550形が『阪急化』の先兵として投入され、P 6の4連にT車として混結使用された。
続く阪急化は翌年に710形14両の新製配置で行われた。

1550形は車体仕様が阪急形だったため下降式窓となっていてP6に比して上下巾が小さく、その位置も少し高かった。一方の710形は本家神戸線の800形より車長を1m強長くした18m級で、ほぼ特急専用車として使用されたため、スラリとした細面と相俟って一種の憧れ的存在であった。

なお、この710形は当時1500Vだった京都線と神戸線の600Vに適合する複電圧車となっていて、神戸線への直通乗り入れが出来た。

写真上:下り特急最後部の765(1962.8.15.総持寺) 
写真下:764他の旧マーク上り特急(1962.3.1.総持寺)

 

⑨ 千里山線の変則車(700・750形)

戦後の1948(昭和23)年に千里山線に運輸省規格の700形・750形が夫々5両づつ新製配置されたが、本来の阪急スタイルとは似て非なるものであった。

何よりも異質を感じたのは、阪急スタイルの920形に比して車体巾が15cmも広かったため、前面の印象が全く違っていた事で、加えて窓が2段上昇式だったのが更に異質感を増していた。

その後の同車は下記の通り千里山線に於ける車両の遣り繰りの妙に重要な役割を果たした。

Tc車の750形を電動車化して700形に編入するのと同時に、異系列のTc車だった5両の300形(新京阪継承車の1300形を改番)をT車に改造して誕生した2代目750形を中間に挟んだMc+T+Mcの3両編成を5本生み出した。この3両編成は不揃いでチグハグ感は拭えなかったものの夫々に個性が有って、車両の有効利用には感心したものだ。

写真:701他3連(1963.8.18.市役所前)

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

想い出の阪急京都線・・・①」への12件のフィードバック

  1. 河 昭一郎様
    米手作市様

    懐かしい話題を提供していただき有難うございます。
    専門家のマルーンさんや新京阪等にお詳しい方も沢山おられることと思いますが不詳ブータレ爺さんの私が多少感想なり質問をさせていただきます。全体に素晴らしい新京阪の印象を感じ取ることができて久しぶりにワクワク感が戻ってきました。

    冒頭の部分ですが
    (1) 阪急神戸線の架線は600V軌道法時代からコンパウンドカテナリー方式でレールは50kg級ではなかったでしょうか。近鉄の大阪線はどうだったのでしょうか。
    (2) ②の京都線誕生の頃で京阪電気鉄道は阪急電鉄を主体とした阪神急行電鉄と(国策により)合併とありますが、阪急電鉄を主体としたは不要ではないでしょうか。
    (3)交通体系を淀川の右岸と左岸に分離する案に小林一三は関係したのでしょうか。国策だけではよくわかりません。他社の合併も実際の話はわかりません。
    (4)貴賓車のフキ1500は同形式1両のみですがどうして新京阪付番方式の01である1501にならなかったのか初めて気づいたことですが。
    (5)p-6は大型幌あってのP-6ですが連結部分に雨水が洩れるとのことを聞いたような気がしますが、せめて雨水漏れに関係の少ないとも思われる先頭だけはそのまま残して欲しかったと思うのは私だけでしょうか。
    (6)小型車ながら逸品の木造車P-5は最後の能勢電時代に木が腐食でボロボロはがれるのを確認したことがあります。
    (7)もう一つの異端車(210,260)
    貨物電車の転用改造でアンチクライマーなしの間の抜けた顔とのことですが、ご存知同時期で同じ様な形の車両に神宝線610系がありました。特に最初の610~660は非貫通で神宝線の800系後期の805~855,806~856も同じ間の抜けた顔です。610系36両は51形34両、1型2両の機器、台車を500型(380形)に振り替え500形(380形)のものは610形に転用するというややこしいものです。実際はもっとややこしく理解に苦しみます。しかし車体長15mでも車体幅が大型車並みでステップなしでそのほとんどが貫通型タイプは好ましいスタイルでした。1969年3月4日甲陽園線で最後の活躍の664+614が夙川に到着する雪の日の姿で後ろのお椀のような山は標高309mの阪神間のシンボル甲山です。

    • 準特急様
      ご質問(1)の近鉄部分の証拠写真がありましたので投稿いたします。1963年10月に大阪線の車内から撮影した高架の今里から地平時代の布施に向かって坂を下る辺りですが、左側2線が奈良線、右側2線が大阪線です。この時点では奈良線は600 V、大阪線は1,500 Vでしたが、架線方式はどちらもコンパウンドカテナリー式で軌条は50kgレールを使用していたようです。

    • 準特急さま
      (1) 神戸線がコンパウンド方式だったとのお話し。
      遠い昔の小生が小学生~中学生の時代の記憶を溯っての記述でしたが、「証拠写真」を家中探し回った(笑)結果が添付の写真です。

      (2)「阪急電鉄を主体とした」の件、戦時中の国策により京阪が阪急に吸収された形となったとの理解でしたが・・・。

      (3)小林一三の名を出したとすれば、それは小生の勇み足だった様です。

      • 河昭一郎様
        (1)コンパウンドカテナリー方式の架線は関西の私鉄の高速鉄道区間に多いと思い興味を持って見ていました。詳しいことはよくわかりませんが新幹線もこの方式ですね。関東では相鉄線の三ツ境付近で見ています。まだあるかも知れません。ダブルカテナリーを採用するところもあるようです。
        (2)小林一三の名を出したのは私でして小林一三は商工大臣をやっていましたが同大臣は高橋是清以下錚々たる人が名を連ねています。小林一三は1940.1.16~7.22と時期的にずれており果たして真相はわかりません。
        次に1966.5.6神戸線夙川₋芦屋川間を行く2041先頭の神戸三宮行き普通ですが架線が写っています。

  2. 懐かしい写真の数々、有り難く拝見しております。
    専門家でも何でもない私ですから適切なコメントは出来ませんが読ませて頂いて、昭和44年に京阪神急行電鉄に就職内定し、3年間お世話になった浄土寺下南田町の下宿先のおじさんとおばさんに挨拶に行きました。
    お陰様で就職先が決まりましたと伝えたところ、どこへや?とのこと。阪急ですと答えるとそれどこや?という感じ。おばさんの取りなしがあって、あぁ新京阪のことかと納得されたのを思い出しました。

    • マルーンさま
      その頃に私も同様の体験をしていました。就職後の車掌研修時でしたが、早朝からの勤務を終え市バスで帰宅しようとしていた時のことでした。堀川御池に着いた際に年配の方が運転手に、新京阪に乗りたいんだがと訊ねたのでした。まだ20代の運転手は首をかしげ、京阪なら反対方向ですがと返事、様子を見ていた小生が新京阪とは阪急のことだよと声を掛け、件のご老人は四条大宮への案内を受けて降りていかれました。親戚の年寄りもずっと新京阪と言っていました。今では京都でも阪急の名が定着しましたね。

      • 1900生さんの誠に適切な対応に、改めて敬意を表させて頂きます。
        もう半世紀以上前のことになるのですね!半世紀とは恐ろしや!
        新京阪も昔話になるのですね。

  3. 今まで続いた暑さから解放されたのですが、頭は正常になってないようです。
    前のコメント、挨拶に行きました。は挨拶に行き、お陰様でと繋いでください。失礼いたしました。

  4. ⑤の流線形 201+251のサヨナラ運転の写真です。当日朝の新聞地方版に掲載されて桂駅で写したものです。昭和45年3月1日、中学2年の3学期でした。ホームには50人くらいがカメラを構えていましたが、誰からとなく線路に降り始め、私も右へならえでした。惜別のマークには1937~1970の表記がありました。
    運転手や駅員の制服を見ると、当時の阪急は詰め襟だったことが分かります。と言うことはマルーン先輩も入社後しばらくは、詰め襟の制服を着て業務に励んでおられたのですね。

    • 私が入社した昭和45年は3月から日本万国博覧会が開催されました。
      入社前に制服調整で運輸部に行ったら、何と詰め襟ではなく、グレーのスーツを見せられました。万博を機会に制服が替わるとか!てっきり詰め襟だと思っていたのですが・・赤のネクタイは自分で締めるのではなくピン留めのものでした!
      京阪さんは少し前に詰め襟から濃い緑のスーツに変更されていましたね。

  5. 1973年3月11日、正雀~桂間でP-6の「さよなら運転」が行われました。往きは、鉄道友の会の貸切でしたが、当時、京都支部長をされていた大西顧問から声をかけていただき、乗車しました。帰りの回送をこの場所で撮影しましたが、同業者はおらず、特派員さん、井原さんと私の3人だけだったと思います。

  6. 昔から阪急京都線と京阪本線はDRFC内でもよく話題に上りました。元々京阪の方は歴史が古くその分カーブに代表されるハンディ持ちの会社でした。これに対して阪急京都線はそのハンディを克服すべく遠大な構想でできた会社であることは河様がお書きになっ通りです。今回は同年代の車両を簡単に比較してみたいと思います。まず吊り掛け時代最後の阪急710に対するのは京阪1700ですが、車両が大きい阪急スタイルの710は全鋼製大出力であって半鋼製で小柄な京阪1700は相手が悪いと言いましょうか同じ特急車でも見劣りがしたことと思います。次にカルダン車の時代の車両に入り阪急1300は数も少なく目立たなかったような印象です。京阪1800、1810はいろいろな新機軸を採用した車両で台車もその一つでした。電車発達に貢献した意味では京阪1800、18010の方に軍配を挙げたいところです。次に私鉄各社は競って新性能車を出しました。京阪2000のスーパーカー、阪急2300のオートカーがそれでどちらも各停から急行まで幅広く使われていました。スーパーカーは後のMT方式の2200共々日祝中心も臨時特急に使われていましたが阪急2300は平日でも堂々と特急運用に組み込まれていてひんしゅくをか買ったものでした。京阪1900と阪急2800ですがハンディをサービスに切り替えテレビや補助椅子を備えた(1800時代からこのサービスはありました)のは京阪1900でした。乗り心地は抜群でしたが京阪間の所要時間は遅かった記憶があります。一方の2800はマルーンにアルミサッシと阪急伝統の内装が見事で編成美と速さを感じたもですが4の編成を除きコイルバネだったのが欠点に感じました。京阪は特に1900は通に人気があった車両だと思います。更新車の阪急1600はP-6のモーターに新しい台車を履いていたので同じような考えの神宝線1200と比べても雲泥の差があり、編成美もあって最高の更新車と思っております。以前にも出したことがありますが1968.10.6長岡天神‐大山崎間の竹林を行く2817先頭の梅田行き特急です。

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