四条大宮
四条西洞院で北野線と合流した四条線の市電は、三線式軌道を西へ向かいます。四条堀川で、北野線は堀川通に分岐しますが、戦前までは四条線にも「四条堀川」の停留場があったものの廃止され、以降は、堀川通に曲がった北野線のみに四条堀川の電停がありました。四条線は、つぎの四条大宮までの600mに電停はありません。私は、この付近での撮影はなく、四条堀川にお住まいだった無印不良品さんが本欄に昔々のこと と題して、雪の日の写真を載せられています。市電は幅の広い堀川通を突き切って、まもなく四条大宮に到着です。市電は、ここで二手に分かれ、北西に千本線、南へ大宮線を分ける、変則の五叉路になっていました。▲嵐電四条大宮駅の前で、大宮通から四条通に曲がって行く7号系統(昭和47年1月、以下同じ)。
▲ 四条線、大宮線、千本線が集まっていた時代の四条大宮、阪急の特急も、十三を出ると次の停車駅は大宮で、かつてのターミナルとしての賑わいがまだ感じられた。
▲四条大宮の鉄道の歴史を辿ると、まず明治43年に、嵐山電車軌道(現・京福電鉄)によって嵐山への路線が開業することになる。地図の黄色の二点鎖線は、当時の京都市と愛宕郡の境で、ここから西には人家がほとんどなく、四条大宮は京都市の最西端だった。北野線は走っているが、四条線ほかの広軌線は未開通で、大宮通と千本通を斜めに直結する後院通も未開通(日文研データベース「京都実測地図」を転載)。▲市電四条線は、大正元年に四条大宮へ達し、以後、千本・大宮線へと延伸されていく。昭和6年には、現在の阪急京都線の前身となる新京阪鉄道が、大阪・天神橋から路線を伸ばし、西院から大宮まで関西で初の地下式鉄道として開業した。当時の駅名は、その名も「京阪京都」、昭和18年には京阪神急行電鉄京都駅となり、四条大宮は、京都の玄関口として乗降客で賑わいを見せる。昭和38年、河原町へ延伸され、「大宮」と改称、昭和43年には、写真の駅舎に建て替えられた。
▲四条線から千本線へ、右手の「ニュー大将軍」のサウナビルも、いかにも昭和を感じさせる。
▲千本通と大宮通を斜めに結ぶ後院通にも、対向で電停があった。昭和37年の河原町延伸後、大宮は中間駅となるが、それでも特急は停車して、かつてのターミナル駅の面影があり、歓楽街もあって、「京の新宿」と例えられた時代だった。
▲当時の重要な娯楽であった映画館も、四条大宮には4館あった。いまは最後の映画館もなくなり、飲食店などが入る複合ビルになった。▲四条大宮を通る市電は昭和47年1月に廃止され、市電仲間のトロリーバスも昭和43年9月に廃止されていて、市電の無い交差点になった。平成13年の阪急ダイヤ改正では、特急が大宮を通過することになり、交通結節点としての四条大宮の地位はすっかり低下してしまった。現在、阪急大宮の一日乗車数は1.8万人、隣の西院の2.8万人に大きく差をつけられた。そして、現在の四条大宮を印象づける阪急大宮駅も、いよいよ建て替えが始まるようで、中にあった店舗もすべて撤退、先日前を通ると解体工事が始まっていた。▲四条線、堀川~大宮の市電、1600形ワンマンカーも走っているが、まだまだツーマンも多かった時代だった。▲ツーマンのなかでも印象的だったのは大型の1000形の存在だった。四条線をおもに受け持っていた壬生車庫に多かった形式で、収容力が多く、あまり混まないので1000形が見えるとホッとしたものだ。1000形は32両あったが、ワンマン化の促進で、余剰の7両が昭和46年7月に先行廃車となり、昭和47年1月の四条線などの廃止で、残り25両が廃車となった。
市電が走っていた頃の四条大宮を、懐かしく拝見しました。四条へ出かける時に、何度も通った四条大宮も写真が無ければ思い出せません。大宮東映、嵐電の旧駅舎、阪急大宮駅、鉄柵があった四条通の東行き安全地帯、ニュー大将軍だけは思い出せるのですが、他はちょっと…。
阪急大宮駅ビルが建て替えられるのですか! 知りませんでした。近くに住みながら、四条大宮へ行く用事が無く、この前行ったのは去年の年末でした。15年ほど前までは阪急を月いちで利用しましたが、特急が停まらなくなって不便になりました。利用者の減少がこれほどとは、思いもよりませんでした。見慣れた風景がまたひとつ、消えて行くのですね。さっそく写しに行かねばなりません。
嵐電の旧駅舎が写った画像がありませんので、恥ずかしながら例によって中学生がハーフカメラで撮った写真を貼っておきます。
紫の1863さま
貴重な写真、ありがとうございます。市電から撮られたのですか。私は四条大宮では四方から撮ったものの、なぜか京福四条大宮駅バックを撮っていません。雨の日、傘をさした通行人も入れて、いい雰囲気です。私は唯一、市バス時代には京福駅舎を入れていましたが、看板が違います。
https://drfc-ob.com/wp/archives/124784
3年前の年末に撮った、四条通です。背の高いビルが立ち並んで、市電時代の面影はありません。
総本家青信号特派員さまが、この区間を取り上げて下さるのを待っておりました。お尋ねしたいことが、あるのです。小生の手元にあるこの写真、3線軌道であることから、北野線との併用区間であろうと思うが、いまいち確信が持てません。これまでのお話でも、四条通は相当に繁華な通りですが、この写真ではそうでもなさそうです。道路も舗装されていませんし。N電に見えるが、外側軌道を走っているので、これは広軌1型。1本ポールなので、戦後それも1型が昭和27年に全廃される迄では?、と自分なりに推理してみました。行先表示が読めれば、解決するのですが、残念ながら読めません。さて京都の皆様のお見立ては、如何なものでしょう?
宮崎様
これは難問です。四条通にしては道幅が狭く、N電との供用区間(西洞院~堀川)とは考えられません。戦後なら系統板を表示しているはずですし、英字の標記もあるはずです。
広軌1形の特徴は9コ窓、水雷型ベンチレーターですが、164号は8コ窓でベンチレーターはありません。救助網の形状も他車のものとは違うように見えます。車体の塗色も窓廻りと下半部が違う色で、腰板部分は白という独特のものです。164号は広軌1形の中の異端車だったのでしょうか?
本の知識ですが、大正2年5月に梅鉢で163-166が製造されました。164の画像は見つかりませんでしたが、ひとつ前の163号は石井写真にありました。9コ窓で、ベンチレーターはありません。ポールはもちろん2本です。同じ時期に同じ製造所で作られたのにもかかわらず、仕様が異なっています。
着目したのが伏見線で、大正9年12月15日から広軌化に着工し、翌年6月上旬には仮運転が開始されたと「さよなら京都市電」にあります。京電の狭軌路線は単架線でしたので、164号をシングルポールに改造して仮運転に使用した可能性を考えました。。ただ、ベスチビュール改造の時期がはっきりしませんので、自信がありません。
あくまでも私の妄想ですが、道路幅と単架線を手掛かりに考えると、伏見線のような気がします。
道路が未舗装なのと、背景に山家ないので四条通ではありません。
そうなのです。今では、高いビルに挟まれ、背景の山は見えぬと思うが、この低い家並みであれば、山が見えたであろうとは、地元の方なら直感的に『オカシイ!』と思われた点でしょう。
紫の1863さま、早速のコメント有難うございます。拝読し、固定観念に捉われていたかなと思いました。「1本ポール=戦後」+「三線区間=狭・広軌併用」→四条通、と云った図式です。御指摘の電車塗装や、系統板のないのは、気には掛かったものの、上の図式は決定的要因と思い込んだのが、誤りの元のようです。こうしてみると、他にも戦後の27年までなら、占領軍指示の自動車に対する追越時の注意書きが無い、背景に山が無く、平地のようだと云った点も、小生の推測に対する反証となります。路傍の家に掲げられた「山口歯科医院」の広告に注目し、ちょっと調べたのだが、得るところがありませんでした。もっとも、お説の通りなら時期も、地域も明後日の方角を探していた訳で、釣果がなくて当然なのですが!
山口歯科医院の看板がある建物の前と横に積み上げられた、日本酒の木枠から伏見を連想しました。総本家様の「市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線」で伏見線の沿線に酒造会社があったこと、線路が片側に寄っていたことなどを思い出しました。
場所は棒鼻以南です。丹波橋、肥後町、大手筋、京橋あたりが候補に上ります。中でも丹波橋を過ぎて濠川を渡り、東に90度曲がった場所などは、特に怪しいように思います。
舗装されていないのは、広軌化の工事中ではないでしょうか。全線の広軌化工事が完成するまで狭軌も併用され、三線の区間が存在したと思います。つまり、中書島までの通し運転は狭軌線で行ない、広軌は京都駅側から徐々に伸ばしていったと考えるのです。資料を当たったわけでもなく、何の裏付けもない私の想像に過ぎません。ただ、乗客の立場から見ると、目的地によって電車を選ぶと乗り換えの手間が省けます。中書島まで広軌が完成した後、狭軌を撤去したのではないかと考えるのです。
広軌化の完成は大正12年6月26日です。ベスチビュールの改造時期は特定できませんが、大正の終わりから昭和の初めとされています。
広軌化工事中の伏見線、私はこのように考えました。
後出しで失礼します。うーん、私も分かりません。紫の1863さん、米手さんが記されているように、四条通ではありませんね。道幅も違います。あと、京都で三線区間は、丸太町通にもありましたが、もっと早くに無くなっています。雰囲気としては、紫の1863さんがお書きのように、伏見線の感じがしますが、一斉に改軌しています。あるいは三線にして、運転を止めることなく改軌をしたのか‥‥、それにしても時代が違います。広軌1型は9個窓ですが、どう数えても8個です。いっそほかの都市では‥‥と、近いところでは大津、北九州、福岡ではと妄想しますが、164という車両はありません。謎は深まるばかりです。ほかにも探索網を広げてみます。
四条大宮の思い出
四条大宮の思い出
故中村進一氏の作品より
天知茂主演の「悪魔の手毬歌」、見たかった!
新緑の嵐電301号の際にコメントさせていただいた写真展千穐楽見学は四条大宮の「焼肉大将軍」で優雅に?ランチビールしてから、嵐電で嵐山に出て桂経由で、でした。その節は、そんなことで到着が遅くなってしまい、失礼いたしました。
それはさておき、youtubeで見つけました
https://www.youtube.com/watch?v=sEdarwyZM_Y
タイトルは「四条通り」となってますが、京都駅前もあり、楽しめます。1分半あたりの空地は強制疎開後の五条通でしょうか?
宇都家さま
大将軍で“焼肉”ですか? いいですなぁ。さて、ご案内のYouTube拝見しました。これは珍しい! なんと終戦直後のカラー動画ではないですか。進駐軍が撮ったものでしょうか。京都駅前のループ線を走る市電も初めて見ましたよ。ご指摘の一分半あたりの空き地は、背後の山から見て五条通でしょうね。それにしても貴重なサイトでした。ご案内、ありがとうございます。
宇都家さまが紹介された、youtubeの映像を小生も見ました。3分45秒辺りのダブルポールのポール廻しの記録は、大変興味深く、貴重な記録と思います。これまで1本づつ両側面から行うと思っていたが、2本いっぺんに、行うのでビックリしました。考えてみれば、遠い方のコードを近い方のポールを乗り越えるように按排すれば、可能なのですね。良いものをご紹介下さり、有難うございました。
四条大宮の思い出
祖父が役員をしていた会社があり、今も盛業中ですが、「元役員の孫です」と言っても「ㇵァ」と言われるだけでしょうね。
昭和44年9月28日、516です。
四条大宮は、市電がなくなってからも、ほとんど変化はなかったのですが、この10年ぐらいに、大きく変わりました。ホテルが林立し、それが満杯になったら、今度はマンション建設、そして、この度の阪急大宮駅の建て替えです。
昭和43年11月6日、524です。車体は未更新でした。
白円板は、試運転で九条大宮を往復した時のものです。
昭和44年9月28日、廃止が間近に迫ったトロリーバスです。
宮崎様から寄せられた“謎の三線軌道”写真、紫の1863さんも巻き込んでの論争となりました。当事者の私としても日夜?調査に勤しんでいました。いつも貴重な資料でご教示いただいてるSさんにも応援を求めて、得た結論から、やはり、この写真は京都ではないようです。車両は、京都市電広軌1型とは各部で異なります。伏見線改軌中との可能性も考えましたが、そもそもの車両が違います。あと三線軌条のある路線のなかから、西鉄福岡市内線(廃止当時)ではとの結論に行き着きました。考証のもとが下の写真で、杵屋栄二さんの写真集です。福博電車時代の「大阪型」と言われる、大阪市電からの転入車です。窓の数、側面のカーブ具合、正面のつくり、特徴ある番号書体も酷似しています。なら「164」があったのかと探しますと、杵屋さんの原稿の中に、「続いて149~169も大阪型であり、救助網も大阪時代のままで‥‥」の記述を見つけました。では、どこで撮られたもの?となります。福岡市内には、吉塚駅前から、貨物扱いの博多築港へ行く貨物線があり、大部分を福博電車の線路とは共用の三線軌道になっていました。西鉄時代で言うと、吉塚駅前~千代町~千鳥橋~博多築港前が三線区間でした。
以前にも、本欄でも福岡市在住のおとりんさんと、この付近のことでやり取りした記事があります。
https://drfc-ob.com/wp/archives/117687
循環線と言われる千代町~千鳥橋~博多築港は道幅が広く、写真の面影はありませんが、吉塚駅前から循環線へ至る区間は道幅も狭く、くだんの写真と似ています。西鉄のサイト「にしてつ画像ライブラリー」には、同区間の写真が多数載っています。
写真の添付です。中央が福博電車の「大阪型」、宮崎様ご提供の写真と似ています。
総本家青信号特派員様
杵屋栄二さんが撮影された、福博電車の153号と瓜二つですね。窓の数や方向幕付近の造作、番号の位置も一致しますので、非の打ちどころがないと思います。あえて違いを探すと窓の保護棒ですが、昭和10年から12年にかけて20両の仲間が譲渡されたので、多少の差異があったのかもしれません。
撮影場所は総本家様がおっしゃる通り、吉塚線がくさいですね。宮崎様の写真をよく見ると、奥の方で道路が右に曲がっているようです。さらには煙突から煙が出ているようにも見えます。吉塚駅前から妙見方向を見ると、よく似た地形のようです。妙見の南には専売局の工場もあって、吉塚駅前で撮影された可能性が高まります。
私は伏見線にこだわり過ぎてました。
総本家青信号特派員さまには入念な解析を頂き、感謝申し上げます。思いがけない結論に、ちょっとビックリです。3線区間と云えば、東は小田急/箱根登山、西はN電と云う頭なものですから、それ以外の可能性を端から外してしまったのが、失敗でした。結果的に、「市電が走った街 京都」から大脱線をすることになり、申し訳ございません。しかしながら、皆様の謎解きに随分と楽しませて頂きました。どうも有難うございました。
宮崎様
コメントを頂戴し、ありがとうございます。最初、写真を見た時に、何か違うような感じがしたものの、確証はなく、消去法で、たどり着きました。紫の1863さんの考察や、いつもアドバイスをいただく、Sさんの調査に助けられました。お二人が推定された吉塚駅前~妙見の地図です。写真左奥のゆるやかなカーブが、地図の妙見付近の曲がり角のような気がします。専売公社も地図に書かれています。