市電が走った街 京都を歩く 四条線④

廃止当日をしのぶ 〈特別版〉 ②

では、50年前の四条線最終日、昭和47年1月22日(土)の様子、後半に参ります。四条河原町新京極から7系統に乗って、一気に九条大宮へ行きました。ここで定番の東寺五重塔バックの市電を撮ります。何度か撮っていたものの、大宮~九条の曲がるシーンは今日が最後です。歩きながら北上、高校生の下校、新幹線交差も狙って、四条大宮まで歩き、お好み焼きで遅めの昼食としました。食後、西南角のビルに上り、交差点付近を写します。当時は“京の新宿”と呼ばれた四条大宮から、明日には市電が全く消えてしまう衝撃が、胸を締め付けます。7号系統に乗って四条通を西へ。右手に大丸。

九条大宮で曲がる、本日最終の7号系統、700形の「7」は比較的珍しい。▲▲東寺前では洛南高校生が大量に乗車。▲▲▲島原口付近、多くの系統が輻輳する。▲▲▲▲新幹線との交差を何度も試したが、それも最後。

壬生車庫へ行ってみると、車庫内には、廃車の700形間接車、1000形が集められていました。聞くと、夕方までに、他車庫からの廃車予定を壬生車庫へ移送するとのこと。土曜の午後とあって、小中学生が異様に目立ちます。立ち入り禁止の車庫内を、職員が監視を続けています。あとこの写真も実は最終日、サラ金ばかりが入っているペンシルビルに勝手に上がって撮った。すぐ近くの郵便局長をされていた、ベテランのKさんに、写真展でこの写真を見せると「ワシも撮ったでぇ」と言われた。

で分かったことですが、この時、関係者のみのお別れ式が密かに行われていて、ヘッドマークも用意されていたとのこと。いったん家へ帰ってから、午後9時に祇園で藤本さんと合流、夜景を撮ります。1時間ほど撮影してから、再び壬生車庫前へ。ますます人が増えて、しかも「市電をまもる会」が抗議集会を行うなど、騒乱状態のなか、21号系統の最終が出て行きます。この時、初めて「さようなら四条・千本・大宮線」のヘッドマークが登場します。続いて、23時10分発(所定)の1号乙系統がヘッドマーク付きで発車、壬生車庫付近では撮れないと判断して、千本三条へ移動して、最終をバルブ撮影。そのあと、運よく四条大宮から7乙の最終に乗り、四条堺町で下車、ここでもDRFCのメンバーと会い、所定23時40分発の四条線東行き最終となる、「臨」錦林車庫行きを、四条繁栄会が見送り行事、続いて西行き最終となる、壬生車庫で見送った1号乙系統が所定23時50分に通過します。混雑で堺町では不可能と判断、四条烏丸まで走って、安全地帯によじ上り、1号乙系統最終を撮ったのが、前号のトップ写真となります。祇園では何度もバルブ撮影を試みた。

今日も写真展に来られた方から、「四条線は急に廃止になったから、他線に比べて写真が少ない」との声を聞きました。私も、廃止が決まった1週間前から、急に撮り始め、最終日も、朝から晩まで追い回していたこと、やっと50年後に理解をした次第です。

千本三条でクルマのすき間からやっと最終電車をバルブ撮影、この付近で、近くにお住いの紫の1863さんが撮影されていて、勘秀峰さんともニアミスをしていたことが判明した。当時は縁もゆかりもない、他人同士、50年後のいま、四条線を語り合う時、不思議な縁を感じる。

 市電が走った街 京都を歩く 四条線④」への8件のフィードバック

  1. 今回の記事を拝見し、22日の壬生車庫の動きがつかめました。私はこの日、昼食を慌ただしく済ませ、最寄りの乾隆校から南へ歩き、千本中立売から20系統886に乗って壬生車庫へ移動しました。車庫では多くの人が写真を撮っていたのが見えたので、私も初めて入りました。
    その時撮った写真です。
    廃車のために烏丸車庫から回送されてきた740です。
    午後2時から3時までの間と思います。

  2. 職員の手で「さよなら」の装飾が取り付けられる1836です。このあと㉑の系統板が入れられ、子供たちと記念写真を撮る市民もありました。

    • 紫の1863さま
      これらは貴重な記録ですね。当日、昼間のヘッドマーク装着は、ひと目を避けて、車庫の奥深いところで、関係者だけで密かに行われたと思っていました。廃車予定車は、午後から続々と、壬生車庫に向けて回送されて行きましたね。

  3. 総本家様の邪魔をして撮った、西回りの最終電車1822です。千本三条では最後の電車に乗ろうと、深夜にもかかわらず市民が集まってました。この時、近くの信用金庫の時計は11時13分を表示してました。

    • そうそう、私の前でジャマばかりしている高校生がいました(ウソですょ)。いゃ、これもストロボを発光させて、よく撮られていますね。私なんか、ストロボもなく、手持ちのブレブレが、三脚の長時間露光でクルマのライトに邪魔されるかのどちらかでした。

      • この時の私は中学3年生で、ストロボは高くて買えませんでした。若い人には分からないかもしれませんが、本体価格1500円也のフラッシュを使ってました。一枚撮るごとにフラッシュバルブが一個必要で、シャッターを切るたびに交換するのが面倒でした。私のカメラはハーフサイズでレンズシャッターでしたので、M級バルブを使用します。ミゼット球という小型のものが安かったので、ひと箱(10個入りだったと思います)買いました。値段は200円以上したでしょうか。36枚撮りの白黒フイルムよりも高かったのです。市電が一乗車25円の時代ですので、中学生の小遣いでは結構な金額です。ところがミゼット球は光量が乏しく、遠くまで光が届きません。人物のスナップ程度が限界です。
        鉄道車両に発光機を使用して撮影する行為は現在では考えられませんが、半世紀前は大ごとにもなりませんでした。烏丸線廃止の時には、サングラスを着用して乗務する運転士もありました。

  4. 冒頭、いきなり年号を間違えていました。廃止日は、昭和46年でなく、昭和47年でした。訂正しておきました。写真展でお会いしたから相次いで「デジ青の年号が違いまっせ」と指摘を受けました。皆さん、細かいところまで見ていただいている様子がよく分かりました。

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