市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑰

肥後町
丹波橋を出てからも、古びた伏見の街並みが車窓に続きました。まもなく、伏見桃山城の外堀跡でもある濠川を渡ります。周囲には朽ちた土蔵や酒蔵があったりして、伏見線のハイライト区間となリますが、廃止直前は前記のように、単線化の工事中で、雑然としていました。渡り終えると90度左へカーブ、竹田街道とは直角に交わり、肥後町まで線路は伏見線では唯一東西を向く区間で、寺院も幾つか見られます。再び90度のカーブで南へ。カーブの途上に肥後町の停留場がありました。肥後町の由来は、伏見に多い、大名屋敷跡を示す町名のひとつです。伏見線で唯一の東西区間から南に90度カーブする地点の途中にあった肥後町の停留場。現在でも道路は市電跡に沿ってカーブしている。なお、このカーブは半径36mで、棒鼻以南に大型の1000形が入線できない理由となっていた。同じ大型の500形、1000形では、ボギーセンター間は同じ6.7mだが、車体長が1000形のほうが20cm長く、すれ違い時に車体接触の可能性があった。

京都駅方面の北行き乗り場は、左側の民家の軒先だった。

【肥後町 昭和・平成・令和 定点対比】

東西区間を走る市電、50年間ほとんど変わっていないように見える。右の寺は西養寺と言う。見えているのは庫裏だが、本堂は、真宗寺院のなかで京都でいちばん古い、江戸時代の建築と言う。と言うのも、この付近は、1868年の鳥羽・伏見の戦いで焼け野原になったが、この寺だけは辛うじて類焼を免れたという京都らしい逸話が残っている。肥後町の電停付近を少し引いて見る。右の民家は、三角形の宅地になっている。肥後町の南寄りから600形を見る。伏見線の路線が、竹田街道を南下して、この付近で二回曲がっているが、この不自然な曲がりがどうして出来たのか、やはり、当時の伏見の物流・交通の結節点であった、京橋(下油掛)へ向かう、京電の意志の表れと見たい。「月桂冠」の横を行く。本社は移転し、この場所は製造部門が入る「昭和蔵」となつている。

【MEMO】伏見・稲荷線 系統の移り変わり

廃止前、伏見・稲荷線には、9、18、19の三つの系統が走っていた。これらの系統の成り立ちについて見てみたい。京電時代には、系統という概念はなく、単に行き先のみを表示していたようだ。大正7年7月に京電は市電に買収され、もと京電の狭軌線にも系統が付けられた。

大正7年7月 京電を買収、市営化、系統を新設
 16号系統 京都駅前~中書島
 17号系統 京都駅前~稲荷
大正13年10月 系統の改称
 16号系統を「11」と改称
 17号系統を「10」と改称
昭和10年3月 系統表記を「かな」に変更
 「11」を「や」に
 「10」を「も」に
昭和19年12月 時局に鑑み系統を再編
 「や」(京都駅前~中書島)は変更なし、

 「も」(京都駅前~稲荷)を勧進橋~稲荷に短縮
昭和20年3月 系統表記を数字に変更し、運転区間の変更、補助系統に「補」を付加
 「や」を「9」に 京都駅前~中書島
 「も」を「12」に 勧進橋~稲荷
 「補九」 京都駅前~稲荷
昭和27年12月 系統の見直し、補助系統の番号化
 「補九」を「19」に、「12」を廃止
昭和31年10月
 「18」を新設 四条河原町~京都駅前~中書島
昭和36年4月
 「18」の始発を延長し河原町二条に変更
昭和38年4月 塩小路高倉の渡り線が完成
 「18」は京都駅前経由を廃止、河原町二条~塩小路高倉~中書島となる

大正7年市電狭軌線、昭和10年「かな」系統の全系統図(鉄道ピクトリアルから転載)

6 thoughts on “ 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑰

  1. 総本家青信号特派員殿
    伏見線の数々のカット、なつかしく思い出しています。墨染の山の上から自転車でよく伏見線を撮りに行きました(帰りの坂道がしんどかったですが)。肥後町でのヒトコマをご紹介します。

    • いい仕事してますねぇ~西村さま。京都市交通局の新型車登場のポスターみたいです。カーブの上の700型越しに見える遠景と新車を眺める人々。そして長身で和装のご婦人。着物の裾がひらりの瞬間いいですね。
      乗客が見えないのもポスター撮影さを感じさせます。
      どういうときに撮影されたのですか。
      ペーパーHOで自作したぐらい好きな700型の画像でうっとおしいコロナの霧が晴れます。

      • 大阪通信員様
        こういうカットを狙って撮れるほどの技量を持ち合わせてはおりませんので、偶然の産物です。昭和44年の撮影ですが、全学封鎖等のため、ロクに勉強もせず、江若が無くなると北小松へ出かけたり、室町BOXでたむろしていた頃だったと思います。700型はいいですね。登場した頃は、500型などは見送り、700型が来るのを待って乗った記憶があります。ドアを入ってすぐのところは1窓分座席がなく、窓際に立って横も前もが見えるあの場所が何とも新鮮でした。明るい車内、4枚折り戸も目新しく、間接制御車は小さなコントローラーがかっこよく、京津線の80型と並ぶ京都の名車だったと思います。

  2. 西村雅幸様
    大阪通信員様
    700形の思い出、ありがとうございます。伏見線は500形、600形後期形が多く、700形は、まさに“掃き溜めに鶴”の存在でしたね。とくに肥後町は、カーブ上で停車しますから、その優美な姿を惜しげもなく見せていました。添付の写真は、たしか廃止の一ヵ月ぐらい前にDRFCで撮影会に行った時のもの、この時も700形を同じ場所で写しました。右側にメンバー数人の姿が見えています。

  3. この 曲がり角の停留所は、ず~と先のもので これ以前は3枚目の写真の一番右の電柱のところが「肥後町」の中書島行きの停留所でありました。その後曲がり角へ移設されました。
    写真に写っている和服の美人は、たぶん肥後町の町内の方と思われます。

    • くまごろー様
      ご注釈、ありがとうございます。改めて調べて見ますと、以前には、肥後町のつぎに「毛利橋」停留場が存在したことが分かりました。肥後町から南へ曲がって、最初の信号、毛利橋通との交差付近でした。大正年間ですが、肥後町と統合されて、毛利橋は廃止されたとのことでした。気が付きませんでした。貴重な証言ねありがとうございます。

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