大石橋
京都駅八条口を出た市電は、竹田街道を南下して行きます。京と伏見を結ぶ街道のひとつで、東洞院通を延長する形で、江戸時代に拓かれと言います。途中、竹田村を通るところからこの名があります。沿道には車石が敷かれ、牛車による物資の輸送が盛んに行われていました。車石を専門に研究されているグループがあって、私も何回かフィールドワークに参加して、いまも各所に残っている車石を見て回ったこともありました。
大石橋では、市電九条線と交差します。ここには、九条車庫方面へ向かう南北両方向のポイントがありましたが、営業用ではなく、九条車庫へ入出庫する回送用でしたが、時に「臨」系統として営業のまま、九条車庫へ向かう系統もありました。
▲東寺の五重塔をバックに、夕暮れの大石橋交差点を渡って行く伏見線の500形(以下、昭和45年3月)。
【大石橋 定点対比① 昭和・平成・令和】
▲大石橋交差点の東北側を見る。京阪バスの定観車と並ぶ。背後のスーパーシロの看板もなつかしい。▲▲平成の時代。角はファミレスになり、スーパーの看板はJuscoになった。▲▲▲スーパーの建物は無くなったが、交差点角のファミレスは看板を変えて健在。
【大石橋 定点対比② 昭和・平成・令和】
▲北西角を見る。ちょうど「臨」の九条車庫行きが九条車庫方面に渡りを行くところ、よく見ると後続の500形も「臨」の九条車庫行きである。朝のラッシュを終えた頃なのか、続行で入庫系統があることを初めて知った(Mさん撮影)。▲▲平成の交差点、まだ市電時代の面影が残る。▲▲▲現在の同所。▲最終日、京都駅方面の停留所に到着した、フル装備の501号。▲南側から交差点を見る。大石橋、という地名(住居表示)は無く、この交差点のみの所在地名だ。前回にも紹介した愛染川が竹田街道に沿って流れていて、ここに“大きな石の橋”が架かっていたと言う(Mさん撮影)。
MEMO 廃止された「東寺道」停留所
かつて京都駅八条口と大石橋の間に「東寺道」の停留所があった。現在、「東寺道コミュニティ道路」と名付けられた交差点にあり、昔から西へ行くと東寺に突き当たることから、東寺通、または東寺道と呼ばれていた。右は昭和4年の都市計画地図で、円内、上から京都駅南口(のちの京都駅八条口)、東寺道、大石橋と並んでいる。まだ九条通は、市電はもちろん、道路さえ細く、しかも途中で途切れていることが分かる。東寺道の停留所は、戦後すぐに廃止されている。
今回も又また圧巻でした。いよいよ京都駅から南下ですネ。
小生は若き時期、この伏見線で然る人の自宅の在った深草下河原町まで幾度となく市電に乗りました。
時に一人で、『これから会える』と胸をワクワクさせながら、また或る時は隣に並んで座り、チョットした気配にドキドキしながら500形の揺れを噛みしめていたのを、つい先日の事の様に思い出します。
伏見線はやがて勧進橋で鴨川を渡った後、稲荷線との分岐を経て次の電停が近づくのを『嬉しさを通り越した苦しさ』で居たのも、青春時代真っ只中の事でした。(笑)
・・・な~んて、今の時代には有り得ない『純なお話』でした。
さて、今回の写真でも車両偏重の私には『絶対撮れなかった』ショットが多く、今になって大いに堪能させていただきました。
特に、東寺をバックにした夕景には、その写真の芸術性に息を飲みました。
あの~、大変我が儘なお願いがあります。
もう暫く行くと我が『深草下河原町』です。出来れば、この辺りの写真も見せてくれませんでしょうか?
その後、苦い思い出となってしまった同電停ですが、やっぱり懐かしいものです。
河さま
コメント、ありがとうございます。河さまに、こんな秘めたる思い出が伏見線にあったとは、ゆめゆめ知りませんでした。よくぞ告白していただきました。はい、しばらく他の記事で「深草下川原町」を出すまでには、時間があります。停留所の写った写真で、しばらく辛抱お願いいたします。鴨川を渡り、勧進橋で稲荷線と分かれて、竹田街道を、深草下川原町へ向かう時のドキドキ感、ひと事ながら、よ~く分かります。同所の写真は何点かありますので、また本編でどうぞ懐かしんでいただければと思います。
総本家青信号特派員様
ありがとうございます。
そのものズバリの『深草下川原町電停と中書島行きの507』に、涙が出そうになりました。(笑)
伏見・稲荷線沿線の記憶はありませんが、大石橋だけは市電全廃時まであったのでハッキリ覚えております。泉涌寺道に親戚がありましたので、乾隆校前から千本・大宮・九条線を通って尋ねました。シロも懐かしいですね、昭和44年6月に出来たようです。開店間もないころに一度だけ入りましたが、婦人肌着売り場で汗を浮かべながら品定めをしていた娘さんを思い出します。河 昭一郎様のように甘酸っぱくもほろ苦い青春の思い出ではなく、誠に残念です。
写真を拝見して気が付くのは、庶民の銀行「一六銀行」の看板が目立つことですが、今ではすっかり見かけなくなりました。市電が走っていた頃は、あちこちに広告看板があったように思います。
それからもうひとつ。花電車の他にも側面に「さようなら伏見・稲荷線」の装飾を付けた電車が何両もあったことで、我が国初の電車路線が消えるのを惜しむ気持ちが強かったのでしょうか。
紫の1863さま
続けてのコメント、ありがとうございます。細かいところまで見ていただき、恐縮です。私は、銀行やスーパーの看板には眼が行くのですが、家の壁に掛けられていた琺瑯看板、張り紙もありましたね。こちらのほうが、庶民史としては時代の証言者です。伏見稲荷線で、“花電車”に仕立てられたのは、500形1両(501)、700形2両(707・708)でしたが、九条車庫で伏見稲荷線を走る車両には、全車に側面に送別の看板が取り付けられていました。すべて大丸のスポンサー入りでした。丸物なら分かるのですが、伏見稲荷線とは縁のない大丸が、とは思うのですが、当時は百貨店全盛の時代だったのですね。
「さようなら伏見・稲荷線」の装飾が、伏見・稲荷線を走る全車両に取り付けられていたとは知りませんでした。大丸は北野線廃止の時にも装飾電車のスポンサーになってましたが、京都の百貨店で最も馴染みがあったように思います。ちなみに伏見・稲荷線廃止の頃、小生は大丸の模型売り場でHOの鉄道模型を、物欲しそうに眺めていました。
街中でごく普通に見られた看板は、看板屋のおやじさんがペンキで手書きしたものが多く、今のものにはない味がありました。映画や芝居の看板やポスターも時代を物語るものが多く、けっこう興味をそそります。
大石橋の東寺バックの写真は確か、伏見線廃止記事でファン誌(浪人時代に古書店で入手し、当会を知りました)に掲載されたものでしょうか?当時からすごく印象に残ってまして、掲載ありがとうございます。
つい先日、稲荷では工事で軌条が「出土」したそうですね。
宇都家さま
「鉄道ファン」の記事も覚えてもらっていましたか、ありがとうございます。ファに載せた写真は、モノクロで、別の日に撮ったものです。陶化小学校の前に九条通を渡る横断陸橋があって、そこかに撮りました。たしか、伏見稲荷線の記念写真展があり、たぶん高名なTさんだと思いますが、同所から撮られた写真があり、これがヒントになりました。最終日の前日の夕方にもう一度行ってカラーで撮りました。青信号で一斉に渡りますから、自動車と被っていますが、なかの乗客がシルエットになっているのがミソだと思っています。この写真がDRFCを知るきっかけになったとは光栄なことです。私の場合は、ピクに載った先輩の京阪電鉄の記事でDRFCの存在を知りました。稲荷のレール出土は、手厚く保護されていて、橋の改修後は、保存展示されると聞きました。