市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑯

丹波橋
棒鼻を出て、専用軌道を走る途中にあった、琵琶湖疏水の放水路を渡る鉄橋からは、伏見のシンボル、復元された伏見桃山城の天守閣がよく見えたものでした。疏水を渡り終えると、伏見の古くからある街並みが車窓に続き、そのなかに、招徳酒造の工場もありました。市電に乗っていても、酒の香りが車内を包み込み、伏見の街に入ってきたことを嗅覚からも感じたものです。まもなく丹波橋の停留場ですが、停留場とは名ばかりの、商家の軒先のわずかなスペースで多くの乗客が待っていました。
ところで「丹波橋」の由来ですが、東へ200mほどのところにある、伏見城の外堀に当たる壕川に架かる橋の名から来ていて、橋のそばに桑山丹波守の屋敷があったのが、橋の名前の由来とのこと。ところで、「丹波橋」は、いまでは京阪の駅名として定着しています。もとを正せば、京電、京阪とも同じ軌道法における民鉄であり、同一駅名がよく存続したものですが、京電が先輩格であり、あとから敷設された京阪こそ「京阪丹波橋」とするか、別の駅名を冠するべきだったでしょう。ほかにも「中書島」「稲荷」と、京阪と被る駅名があります(京阪は「伏見稲荷」だが、昭和14年まで稲荷を名乗っていた)。開業以来、頑として停留場名を変更しなかった京電に、日本最初の電気鉄道としての矜持を感じたものでした。商店の軒先が丹波橋の乗り場、春休みの朝、四条あたりへ行くのか、多くが18号系統を待っていた。

前回の「棒鼻」、今回の「丹波橋」、次回の「肥後町」、3停留場付近の地図。

一段と高くなった疏水放水路を渡り終えて、複線区間に戻り、伏見の街に入ってきた。左手奥に、下板橋踏切がかすかに見える。▲招徳酒造の前を行く。錆色に塗った蔵にグリーンの市電がよくマッチしていた。もとは京都にあった酒蔵だったが、水を求めて大正中期に伏見へ移って来たと言う。

【丹波橋 昭和・平成・令和 三代対比①】

招徳酒造前を比較する。酒蔵は健在だが、外観は木質系の色に塗り替えられている。また手前にあった事務所などは、市電廃止後まもなく撤収されて、現在では商業施設が営業している。

丹波橋で交換する、最新の700形と最古の500形。その間を東西に横切っていたのが丹波橋通。

【丹波橋 昭和・平成・令和 三代対比②】

停留場に付きものの標識は、ここでは、90度ヒン曲がって取付けられていて、どうしても市電と一緒に写し込めなかった。「紙・文具」の店は、平成になると空き地になり、令和の時代にはワンルームマンションのような3階建てになっていた。

丹波橋から壕川まで、軌道の西側の数百mは、ずっと木造二階建てが続く、その当時でも珍しい光景が続いていた。現在(右写真)でも、ほとんどそのまま木造建屋が残り、市電時代を彷彿とさせている。

 

「写真タカハシ」の看板の前で、再び単線になる。看板名は高名な鉄道写真家と同じだが、何ら関係が無い。▲▲壕川に近づくと、太い原木が転がされていて、かつては水路で伏見に運ばれていたことを偲ばせた。かつての伏見城の外堀に当たる、壕川を渡る。廃止一年前の風景で、まだ単線化されない、伏見線の原風景があった。廃止前になると、鉄橋の前後が単線化された。工事車両や資材が置かれて、原風景が失われていた。下を流れる壕川も、淀んだ汚い水面をさらしていた。現在のように、清流があり、史跡として整備されているのとは大きな違いだった。

 

 

単線化された壕川を渡る。左の白いコンクリート部が、代替バスの走る道路橋となる。

肥後町方面から来た市電は、都鶴酒造の前で90度曲がって、壕川を渡っていく。道路化された現在、酒造会社は移転し、真っ赤なパチンコ店になっている。

 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑯」への1件のフィードバック

  1. この壕川のたもとに、今でも“トワイライトゾーン”が残っています。所有者に迷惑が掛かりますので、画像は載せませんが、伏見線廃止後50年たっても、まだ残っていること、伏見の奥深さを感じました。

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