市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑱

大手筋

ふたたび京都市電伏見・稲荷線に戻ります。あと3停留場分が残っています。
肥後町で90度カーブして、再び南方向へ向かい、右手に見える「月桂冠」の工場を過ぎると「大手筋」に着きます。大手筋の地名由来は、ここから東へ行けば、伏見桃山城の大手門に繋がっているところから来ています。他都市では、その由来から大手筋、大手町と言えば、官庁街となる場合が多いものですが、伏見では商店街として発達しました。停留場から東へ行けば、伏見最大のショッピングゾーン、大手筋商店街へと至ります。巨大なショッピングセンターなど皆無の時代、市電でも、買い物籠をぶら下げた主婦の乗降も見られ、伏見一円から多くの買い物客で賑わっていました。
月桂冠の工場・社屋をバックに、大手筋に到着した伏見線の市電(Mさん撮影)。

大手筋 新旧対比 】

「ほねつぎ」の看板の前に停車する市電。ここも白線だけの停留場で、路面から乗り降りする。現況(右)を見ると、「ほねつぎ」の村上医院はそのままで、旧景中央の木造建屋へも延長されている。中央の日本生命、看板こそ見えないが、建物そのものは同じ。

大手筋~京橋を行く。つぎの京橋の看板が右手奥に見えており、この間は400mしかない。

MEMO ヘッドマークと雑誌寄稿

ここでDRFCの時代の取り組み2件を記してみます。

まず思いついたのは、“市電にDRFCのマークを付けたい!”だった。前年10月の江若鉄道で味を占めたもので、市電とあれば、その周知効果ははるかに大きい。江若鉄道では一夜漬けの作業だったため、かなりショボイものになったが、今度は時間がある。周囲を飾るモールも、家のクリスマスツリーの流用ではなく、四条通の南側に装飾品を扱っている専門店があり、キンキラの飾りを買うこともできた。書体にも気を配り、レタリングの本を見ながらゴシックで書き上げた。前後2対あるため、区別のため、サブキャッチを、日本「最古」と日本「最初」に書き分けたのがミソ。

ヘッドマークについては本稿〈1〉でも少し記したが、その後の調査で日付に誤りがあったので、再度記すと、ヘッドマークの前後2対が完成し、3月29日(月)、自転車の後部にくくりつけて、九条車庫まで走った。もちろん何の連絡・交渉もない直談判だった。受付で名刺を差し出し、来意を告げると、応対していただいたのが九条営業所の所長だった(いまも名刺は保存中)。江若鉄道では即取付けとなったが、さすがにお役所、話を聞いてもらい、ヘッドマークは預かりとなった。その翌30日(火)、午後から、DRFCのメンバーと合流し、T君のクルマに乗せてもらい沿線を移動していた。ヘッドマーク取付の有無の連絡も無く、“やっぱり無理か”と思ったとき、十条通付近で北上する501号が目に入った。“付けてる!”、501号の正面に取付けられているではないか! みんなで歓喜して、あわててクルマを飛び降りて撮影したのが、この写真。
▲ヘッドマーク付きに遭遇したのが30日午後からで、朝の仕業から取付けられたのかは確証はないが、少なくとも一日半にわたって、市民にDRFCの存在を知ってもらうことができ、しかも、最古参で廃車予定の500形のトップナンバー車に取付けと、これ以上望むものもないほどだった。

 

 

 

ヘッドマークを取付けた500形の車内の2景。ヘッドマーク付きの501号は3月31日の最終まで取付けられて、九条車庫へ戻ってから、ヘッドマークを引き揚げようとすると、何と片方が無い。車庫入りした、わずかな間に盗まれたらしい。結局、片方だけを持ち帰り、しばらくBOXに置かれていたが、これもいつの間にか処分された。

もうひとつの目論見は、伏見・稲荷線の廃止を鉄道雑誌に載せることだ。実は江若鉄道で苦い経験があって、記事を書いて投稿したのだが、その前に大御所のTさんの記事が先着していて、あえなく水泡に帰した。原稿は先着優先を痛感した。そこで、あらかじめ予定稿を書いておき、廃止後は、すぐにフィルム現像、引伸しを行なって、3、4日後には、出版社へ発送した。そのお蔭で、みごとF誌に4ページに掲載され、写真も大きく掲載された。本欄でも、この写真に触発されたと言うメンバーや、比類なき行動力で活躍されている品川530さんのブログでもご覧いただいたことが分かった。

 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑱」への9件のフィードバック

  1. 再開を楽しみにお待ちしておりました。また、早速のご紹介、恐縮です。50年前と同様、大いに楽しませていただき、我が古い記憶をたどるよすがにさせていただきたく。半世紀をワープする(!)ご縁に感謝です!

    • 品川530さま
      コメント、ありがとうございます。寝る前に投稿を済ませて、朝起きてみると、もう品川530さんのコメントが入っていましたょ。いつもながら、行動力には敬服します。品川530さんのブログを拝見していても、同じように勧進橋や壕川鉄橋から撮られたカットもあって、50年前からニアミスを続けていたこと、分かりました。

  2. 私もF誌、1970年7月号に強い印象があります。
    当時私は中学3年生。伏見・稲荷線廃止時には、
    ハーフカメラで撮影をしたに過ぎませんでした。
    そして廃止後いち早くF誌にDRFCの記事が出て、
    素晴らしい写真と構成に、願望と憧れを抱いたものでした。
    その後ラッキーにも同志社に合格した私は最初から
    鉄道同好会以外のサークルは選択の余地はありませんでした。
    今、こうして先輩の方々や、後輩の皆さん、
    京都市電や京電の世界で親しくなった皆さんと
    親しく趣味活動を続けられている
    原点とも言えるF誌の記事です。懐かしいです。

    • 勘秀峰さま
      あまりに同じような境遇で、驚いています。私もDRFCの存在を知ったのが、中学3年の時のP誌で、3人の大先輩が著わされた「京阪電車」でした。今でも、その記事のフレーズや、写真をはっきり覚えていますょ。その時から、「同志社へ行って、鉄道同好会へ入る!」が唯一無二の目標になりました。伏見線の記事が、勘秀峰さんの人生を決めた(?)としたら、こんな嬉しいことはありません。今回の記事でも、勘秀峰さんの知見の数々を参考にさせてもらっています。

  3. 総本家青信号特派員様
     このシリーズは知らないことが多く、いろいろお教え頂いています。昔の街の風景がキッチリ写し出されており素晴らしいですね。
     江若鉄道のさよなら列車にDRFCのヘッドマークを付けられたことは知っていましたが、京都市電伏見稲荷線のさよなら電車にもヘッドマークを付けられたとは、ビックリ!それも500型に。なんとなぁー!よく付けて貰ったなと思うと同時に、凄い!恐れ入りました。
     500型の車内風景も懐かしく、昔を思い出しました。

    • マルーンさま
      いつも暖かいコメント、ありがとうございます。はい、50年前は、こんな酔狂な学生を、一人前の人間として扱っていただいた社会があったんですね。いい時代でした。私としては、取付けられたとしても、地味な600形後期車あたりかなと思っていたのですが、最古参の1号車で、ある意味いちばん注目されていた501号に取付けてもらいました。すでに、交通局の手で車体全体が装飾されていましたから、ヘッドマークがますます映えました。

  4. 総本家青信号特派員殿
    あの日、どうやら私も貴君と一緒にT君のクルマに乗っていたようです。全く同じアングルの写真があります。501との遭遇の時のことは全く覚えていませんが、八条口の側線で撮ったのは覚えています。

    • 西村雅幸さま
      はい、はい、同じ写真ですね。西村さんも同乗されていたこと、覚えていますょ。T君のミニカに乗せてもらって、三人で回ったと思います。そのあと、八条口へ行って、ちょうど仕業を終えて、引込線に入った501号の前で記念写真を撮りました。たしか奥村さんと言う運転士さんにも入ってもらい、写真を奥村さんに送ったことも覚えています。ただ、私もその前後の記憶は残っておらず、写真が唯一の手掛かりでした。

      • もう一度ネガを見返しますと、こんな写真が出てきました。最初にDRFCのヘッドマークを写したコマで、クルマの中から写しています。これが、T君のクルマに乗せてもらい、西村さんも一緒に写したものだと思います。乗降がありますから、十条通か札の辻だと思います。

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