市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑬

七瀬川町

七瀬川と言う小さな川が、停留場付近を流れていました。川は、深草の大岩山を水源として西へ流れて、高瀬川に合流していました。この名称は、川筋に七つの橋が架けられ,また大岩山から高瀬川と合流するまでの間に七瀬があったところから名付けられたと言われています。豊臣秀吉が伏見桃山城を築城する際には、総外堀の役目も担っていたそうです。現在では、潤いと安らぎのある水辺に改修され、親水河川となっています。

【七瀬川町 定点対比】

乗降客の平均年齢が相当高そうな七瀬川、右は現況と思われる箇所、街並みに特徴がなく、定点と決めるものが見つからなかった。

 

七瀬川町~城南宮道を行く。東側には古い街並みが続いていた。こちらは西側の街並みをバックに北行の508号。

 

現在の七瀬川。川は、竹田街道の東で急に南下するため、竹田街道をくぐるのは、棒鼻付近になる。

 

 

 

 

 

 

 

MEMO 初めての「伏見線廃止」記事

昭和39年3月13日毎日新聞朝刊 当時は高度成長のなか、建設ブームで、京都南部から土砂を満載したダンプカーが竹田街道を行き交った。“魔の竹田街道”は、当時の新聞の常套句のように、よく事故が起こった。

昭和39年3月22日京都新聞朝刊 上記の衝突事故を受けてから、わずか9日後に、早くも「廃止」の文字が紙面に躍った。私の集めた新聞記事のなかで、初めて伏見線廃止に触れた記事で、実際の廃止の6年前に当たる。

 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑬」への1件のフィードバック

  1. 「伏見廃止」の記事のなかで、死者2人を出した昭和38年1月の事故について触れていますが、私の新聞切り抜きには残っていませんでした。ネットで調べると、京都市消防局のサイトに、事故の写真が載っていました。18号の848号の全面が大破しています。こんなに損傷しているのに、同車は、その後に復旧しています。

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