市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑲

京橋
京都電気鉄道は明治28年2月1日、当時の京都駅南側、東洞院通塩小路下ルから、今回紹介の「京橋」、当時の伏見町油掛通まで開業したのが始まりです。その油掛通にある和菓子店、伏見駿河屋の前には「電気鉄道事業発祥の地」の記念碑が立っています。まもなく鋼鉄製の京橋で宇治川派流を渡りますが、この付近が、かつての伏見港の中心地で、下流が昔の船溜まりで、大坂から淀川を上がってきた三十石船が発着し、付近は、米問屋、木材問屋、回船問屋などが並び活況を呈していました。旅人相手の旅籠も多く、維新の史跡として名高い寺田屋は唯一の遺構です。

 

鋼鉄製の親柱がある京橋を渡る。「京橋」停留場は、橋の北側にあったが、ここも、安全地帯のない白線で区切っただけのもの。

右手に「電気鉄道事業発祥の地」の碑を見て、家並みギリギリに走る伏見線。

ダンプカーがビュンビュン走るなか、恐る恐る走る。右手奥が伏見駿河屋。京橋の停留場付近を行く。右手の二階建ての古びたアパートは今でも残っている。梯子に乗って、工事人が架線の修繕の様子だが、今では考えられないような工法だ。左手奥が伏見駿河屋、18系統はまもなく「京橋」に着くが、街並みは雑然としていた。京橋を渡る。下の宇治川派流は、昭和になって幅が狭められたが、かつては倍ほどの幅があったと言う。右は現在の京橋。右へ歩けば、坂本龍馬襲撃事件の現場となった寺田屋がある。

【京橋 三代定点対比】

京橋は、かつての伏見港の中心地で、蔵や旅籠が軒を連ねて賑わっていた。市電時代は、水量も少なく荒れた光景だったが、市電廃止後(左下)には橋の欄干も新しくなり、水量も増えてきた。そのあと、一体が親水公園化され(右下)、伏見の観光地のひとつとなった。

 

MEMO① 「電気鉄道事業発祥の地」碑 除幕式

日本最初の電車路線を顕彰する記念碑の建立が、廃止に先立つ昭和45年2月、鉄道友の会によって行なわれ、当会顧問の大西友三郎さんの写真に除幕式の様子が記録されていた。

記念碑除幕式には、警官まで交通整理に出て、伏見駿河屋の前で、友の会の幹部方も出席して賑々しく行なわれた。伏見駿河屋の真横が京電の終点だった。この写真は、その後知られるようになったが、原版は伏見駿河屋のアルバムに貼られていたもの。第一次複写の写真を大西さんが解説付きの用紙に貼られていた。電車の前の柱には「中油掛」の文字が読める。これが当初の停留場名だったのだろうか。

伏見駿河屋は、伏見港で、大名の乗船・待合所として菓子を供したのが始まりで、旧総本家駿河屋より分家、開業した。いまは、分家、別家合わせた9軒で駿河屋会を結成されている。店主の山本さんは、まだお若い方だが、伏見・鉄道の歴史も熟知されていて、店へお伺いすると、興味深い話を聞かせていただいた。もともと伏見駿河屋の敷地は、西側まで広がっていたが、京電開業で削られて現在の敷地になったと言う。

寺田屋事件は、すぐ近くで1866年に起こったが、坂本龍馬は重傷を負いながらも、寺田屋の裏口から大手筋の材木屋へ逃げ隠れた。その脱走径路が、駿河屋の建屋の間の細い中庭で、そこを通って、裏の池の方向に逃げたと言う。この事件のあった29年後の1895年には京電が開業するのだから、さすが歴史の宝庫、伏見である。

 

MEMO② 地図に見る「京橋」付近の変遷 

4世代の地図を、ほぼ同範囲に収めて、その変遷を見た(地図は「日文研地図データベース」から転載)。

明治25年 仮製図 京電の開業前で、京電「大手筋」「京橋」となる位置を朱記した。その間、空き地のように見えるところ、この時代には、蓮池という沼地だったそうな。ここを埋め立てて、道路・軌道を造成したと言う。明治45年 京都市街全図 沼を埋め立てて、京電が開業、伏見駿河屋の真横まで電車が走った。停留場名は「大手筋」「京橋」と記されているが、開業当時はどこからでも乗降ができた。そもそも停留場という概念はなく、したがって停留場名も無かったはずで、電車の行き先表示も「北行き」「南行き」としか表示されなかった。大正元年 正式図 京電の路線が逆Y字形になっているのが分かる。右は京橋までの旅客線、左は支線で、「大手筋」から分岐して、地方山崎(じかたやまざき)に至る単線の貨物線だった。明治39年に開通、伏見港の近くまで伸びていて、船積みの物資を貨物電車に積み換えて市内に運ばれたが、大正5年に廃止されている。昭和28年 都市計画図 中書島まで延長された、廃止直線と同じ内容。「京橋」停留場は、伏見駿河屋の横から、寺田屋の横へ移されている。移動の時期は、中書島まで延長された大正3年か。

 

 

 

 

 

 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑲」への4件のフィードバック

  1. 地図4枚のうち一番上は初めて拝見したと思います。
    大手筋と油掛の間に沼地があったとは知りませんでした。
    大手筋に商業施設が集積されるのは、
    明治43年に京阪電車が開通して、駅が出来てからです。
    当時は油掛町と納屋町に商店が沢山あったので、
    京電も油掛町まで路線を敷設したのでしょう。
    沼地ならば、用地買収はしなくて済みますし、
    淀川舟運の乗場により近くなります。
    総本家様、中書島までの運転、お疲れ様でした。

    • 勘秀峰さま
      コメント、ありがとうございます。大手筋と京橋の間の空き地については、その伏見駿河屋さんから聞かせてもらいました。電車が開業する前後の様子を、手製の地図で話を聞かせてもらいます。池と言っても、水深も浅い、湿地のようなものだったそうです。その頃の駿河屋さんは、港で船待ちをする客相手に菓子を供して繁華だったと聞いています。店の敷地は、旧伏見線よりもっと西まで広がっていて、寺田屋で襲撃された坂本龍馬が逃走したなど、興味深いエピソードを聞かせてもらいました。

  2. 明治25年仮製図は愛用しているサイト「近代京都オーバーレイマップ」で見ていたのですが、『蓮池』のところは白く抜けていて正体不明でした。沼地でしたか。
    寺田屋の東にある「宝来橋」のたもとに、「御大典記念埋立竣工記念碑」が建っています。昭和の御大典なのか、それとも大正の御大典なのかはストリートビューで確認できません。『蓮池』にしては時期が遅く、中書島駅西方を流れていた濠川分流なのかも分かりません。やはり現地へ足を運ぶ必要があります。
    撮影方向や、商店の位置を手製の略図に書き込んで、撮影場所をピンポイントで特定して楽しんでおります。ある雑誌で大御所の写真に添えられた解説が違っていた時などは、思わずニヤッとしてしまいました。
    7枚目の⑱を付けた708号について。方向幕は「河原町二条」ですが運転手の姿が見えますので、中書島行きでしょう。終点の中書島が近いことから、早めに変えていたのかもしれませんね。白い車の上の方に、三菱のマークが見えますので、京橋の北側にあったガソリンスタンドの看板でしょう。細かいことを指摘して申し訳ありません。

    • 紫の1863さま
      コメント、ありがとうございます。蓬莱橋のたもとに大きな碑が建っていますね。これは昭和の御大典の時のものです。ちょうど短期間だけあった「伏見市」の刻印がいまも残る石碑として名高いです。今でこそ水路もキレイになりましたが、碑文によると、当時はゴミ捨て場と化していたようで、水路を狭くして、道路も付けて整備したようです。
      ⑱の708号の行き先ですが、終点で待っている乗客に行き先が分かるように、あらかじめ、幕を折返しの行き先に変えていました。乗務員の細やかな配慮でした。場所は京橋を渡り、中書島の専用軌道に入るところで、道路中央を走っていた線路が東に寄って来ています。

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