市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑳

中書島
いよいよ伏見線の終点の中書島へ。

京橋を渡って、しばらく走り、最後の専用軌道に入ります。大きく左へカーブして終点の「中書島」へ至っていました。京都市電では最南端に当たり、標高の最も低い停留場でした。すぐ隣は、京阪電鉄の中書島駅で、乗り換えは便利でした。

中書島まで延長されたのは大正3年で、京阪電鉄はすでに全通を果たしていました。今まで舟運に頼っていた、淀川左岸の大阪~京都の移動が、京阪電鉄の開業で、一気に近代化し、利便性が向上します。京電の中書島延長も、舟運連絡から、京阪電車との連絡連携を狙ったものですが、伏見線と京阪は、ほぼ並行するだけに、大阪~京都の直通客は京阪の利用となり、伏見線は打撃を受けることになります。北へ行けば中書島の歓楽街、市電はしばしの憩いを取り、乗客を乗せて再び元の道をたどって行きます。

京阪中書島駅と中書島商店街との間には踏切があって、複線から単線突っ込み式の「中書島」となっていた。

最後の専用軌道を行く。右手は京阪中書島駅西のアンダーパス道路で、かつては濠川からの分流があった水路跡で、当時は道路に改修する工事が行なわれていた。上記の写真の西側地点から撮ったもので、この写真下部に円筒の橋台、右手にも橋台が見えている。これは、線路が水路を越えていた名残りと言われている。伏見線は、この専用線の部分がその後に移設されている。車体を傾けて急カーブの専用軌道を行く。

 

専用軌道を行く京都駅方面行きの電車を後追いする。

 

 

 

トップの写真の反対側から「中書島」停留場を見る。「中書島繁栄会」のアーチをくぐると、中書島の赤い灯、青い灯が連なる歓楽街となる。

「中書島」停留場、奥にもう1両がいて、都合2両分のホームがあった。伏見線は、ほぼ全区間、安全地帯が無かったので、ベンチや上屋を備えた停留場は破格の設備に映った。

【中書島 昭和・平成・令和 三代対比】

市電廃止後、跡地は市バス「中書島」ターミナルとなった(左)。中書島を始終発とする系統のほか、経由系統も発着した。向こうは行き止まりのため、終端部にターンテーブルを設けてバスを転回していた。その後,市バス系統の変化で、「中書島」バス停は移転してしまい、そのあとは遊歩道・小公園となった(右)。奥のターンテーブル跡は駐輪場になった。

奥にあった市バスのターンテーブル、当時はバスにも熱心で、横大路車庫のツーマン車など珍しいバスの撮影地として何度か訪れた。

停留場に掲げられていた、行き先案内と終発時刻案内。終端部から見た伏見線。上りの京阪電車から降りると、階段の上下移動もなく、歩いて30秒で市電に乗り換えができる、この上なく便利な乗り物だった。

 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑳」への10件のフィードバック

  1. 20回に及ぶ大作も、終点の中書島に着いてしまいました。
    写真の他に古地図や大西先生の資料なども豊富で、京電の時代からの歴史が良く理解できました。
    勧進橋以南では旧竹田街道の狭軌単線が、新しい道路の建設によって複線となって移設され、その後に軌間が広げられたことなど、これまでは考えもしませんでした。
    棒鼻-肥後町間の廃線前に単線化された区間の様子も、写真と新聞記事の切り抜きを添えて解説され、自分の目で見たかのように思えました。
    伏見・稲荷線の写真は先達の写真集などで多く見てきましたが、似通った場所での撮影が多く、全貌をつかむことはできませんでした。しかし、総本家様は停留所ごとの写真を掲載され、「点」でしか分からなかった撮影地が「線」に繋がりました。
    「駿河屋」から京橋の区間では道路幅が広くなってますが、建設された年代の違いに理由がありそうですね。
    今回の写真で、中書島駅西方の道路工事の様子が見えます。濠川分流とのことですが、これは寺田屋の前から南へ流れていた分流でしょうか。そうであれば、寺田屋の前が船着き場だったことも、うなづけます。
    市電を通じて伏見の歴史にも興味が湧いてきました。現地を歩いてみたい衝動にかられますが、今はストリートビューで辛抱しておきます。
    とても良い勉強になりました。ありがとうございます。

    • 紫の1863様
      いつも速攻のコメント、ありがとうございます。最初はこのシリーズ、いつ終えられるのかと思っていましたが、“巣ごもり”のお蔭で意外に早く終えることができました。ただ、50年も経つと、記録は散逸し、記憶も相当に薄らぎました。50年を契機に、京都に生まれ育った人間としては、何とか纏めたいと思い始めました。写真・資料・助言でお世話になった皆さんのお蔭です。自分としても、断片がつながって、ひとつのストーリーができました。あと、最終日のことも書きたく思います。少しだけ続けます。

  2. 伏見、稲荷線の連載毎回楽しみに拝見しました。以前コメントしましたが、廃止4日前に撮影したポジフィルムがもう少し出てきました。残念ながらその時は勧進橋付近しか行かなかったようです。今回の投稿拝見すると勧進橋から南が本当の伏見線の雰囲気が味わえたようですね。2月に伏見の酒蔵巡りに行きました。寺田屋の前も通りましたがそのすぐ横を市電が通っていたとは知りませんでした。50年前の建物もまだ残っているようで、落ち着いたら廃線跡をたどりながら訪れたいと思っています。クローバー会のイベントとしてもいいのでは?飲み鉄の方にも喜んでいただけるツアーになると思います。

    • 大津の86さま
      “おうち”での楽しみになったようでしたら何よりです。伏見の酒蔵巡りに行かれましたか。以前の伏見区役所のイベントでは、私の同期の飲み鉄三人組も来てくれましたが、イベントの前に酒蔵を巡って来たそうで、イベントより酒が優先されるなど、いかにも伏見らしいですね。前にも書きましたが、寺田屋で坂本龍馬が襲撃されてから、29年後にすぐ近くで電車が走り始めています。歴史上の史実と電車がこんな接近しているのも伏見らしいところです。歴史と酒の街、伏見へは、ぜひガマンのあと、クローバー会のみんなで行きたいものです。

  3. 総本家青信号特派員様
    京都市電を隅々まで撮りつくされ、新旧街並みを対比され、歴史的なことまで言及された凄い発表を堪能させていただきました。と言っても私は伏見系は京阪電車との平面交差以外は全く知らない世界です。ただ、京阪電車中書島駅の横に九条車庫所属のダークブルーの9番の電車が急カーブで入っていたことはかすかに覚えています。大河ドラマ龍馬伝等の関係で寺田屋は見に行きました。そして伏見港という文字に違和感を覚えたのも懐かしい思い出です。普通は港と言えば、神戸港とか大阪港とか海に面したものと勝手に思い込んでいたからです。今後も貴重な写真とますますの健筆に期待しております。

    • 準特急様
      お褒めのお言葉、ありがとうございます。伏見・稲荷線の廃止時は、準特急さんは、もう東京で働いておられたんですね。なかなか廃止には接することは出来なかったと思います。寺田屋のことで、思い出したのは、P誌の京阪特集で、準特急さんが「京阪沿線は歴史の宝庫」と語られていた言葉です。同様に伏見線でも、電車発祥地と寺田屋がすぐ近くにあったりと、歴史が混在していること、興味深い地域です。あまり地元ネタでは、共感できる方も限定的と聞いています。あり余る時間を有効活用して、また別の投稿を続けて行きます。

      • 総本家さんにはP誌で助けてもらったことがありました。京阪特急が義経とか弁慶とかのマークを付けていたことがあったと思いますがその時応援頂いたと思います。何故麒麟が来るのかよくわかりませんが、今やっている大河ドラマはよく見ています。以前にも書きましたが、番組終了前に当日放映された場面の現在の姿が出てきますがそれを見て思いを馳せるのが好きです。その所縁の地に行くには〇〇電鉄〇〇駅下車等とよく表示されますが、今は愛知県、静岡県が多いですが京阪電鉄はよく出てきますのでそのことを述べた訳です。

        • いまの「麒麟」の終了後の旧跡紹介では、愛知、岐阜県下が多いようですね。アクセスを見ると、かつて走っていた名鉄の支線の地名がありました。その地名を、名鉄の廃線と絡めて思いに耽っています。コロナ騒ぎで、「麒麟」も本能寺まで続けられるか心配ですね。

  4. 3枚目の写真で、市電跡にかつて水路があって、橋脚跡も残っていることを述べていますが、この水路の確証が得られていませんでした。このたび、旧伏見港にあった地図・説明板のなかに、以下の写真のように、市電跡には、以前「京橋水路」があったことが明示されていました。水路を埋めて、京橋~中書島の線路が敷設されたようです。

  5. 京橋水路は気になる存在でしたが、豊臣秀吉が伏見城を築城した際に、外濠として開削した濠川と同時期に出来ていたようです。ネットで見つけた古地図に描かれておりました。
    京電は京橋水路沿いに路線を伸ばし、大正3年3月31日に東浜まで、同年8月25日に中書島までを開業させましたが、工期の違いは京橋水路を渡る橋梁の工事が関係していたのでしょう。京橋から南下してきた線路が東寄りに向きを変える辺りに南東浜町の地名があることから、東浜は、この付近にあったのではないでしょうか。
    旧伏見港の地図・説明版の右側は昭和29年とされてますが、終戦まもなく撮影された航空写真でも、水路の埋め立てが進行している様子が見られます。伏見港は戦時中に整備されたとのことですが、京橋水路の埋立も同時期に進められていたのではないかと推察します。市電の線路が付け替えられた時期は確認できませんが、前記の航空写真は既に変更された後です。昭和28年の都市計画図には新旧の市電の路線が描いてあり、埋め立て後に変更された様子が確認できます。
    水路の埋立時期が分かれば良いのですが、これは伏見の郷土史研究の分野かも知れません。おそらく戦時中に工事が進められ、終戦の前後に切り替えられたのではないかと考えます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください