大西さんの京電地図
今まで見てきた伏見・稲荷線は、私が実見できた昭和45年の廃止直前の状況ですが、そのルーツは、日本最初の電車営業路線、京都電気鉄道に行き着くことを思うと、源流にも思いを馳せることになります。京電は、そのあと京都市に買収されたため、残された史料が乏しいのですが、京電研究の第一人者として、名を馳せられたのが、DRFC顧問をされていた故 大西友三郎さんでした。私は何度も大西さんのフィールドワークに参加させてもらい、博識ぶりを感じました。
大西さんの代表著作が、毎日新聞京都版に連載されていた「チンチン電車物語」です。17回に渡って詳細に記されています。大西さんは、根っからの鉄道ファンだけに、単なる机上の歴史物語ではなく、資料発掘、現地調査や、車両研究にも言及された第一級の京電資料です。その一部は、鉄道ピクトリアル356号の「京都市電訣別特集」の「京都電気鉄道物語」のベースともなりました。私も当時は毎日新聞を愛読していて、その初出記事に出会い、大切に保存してきました。そして、もうひとつ大西さんが纏められた京電関係の手書き地図が手許にあります。これは、表紙のタイトルからすると、鉄道友の会の講演資料のようですが、帝国陸地測量部の官製地図では得られない、一本の線路まで描かれて、当時の様子が活き活きと伝わるような、資料性の高い地図です。今まで紹介した停留所に関する地図を以下に挙げました。
▲京電が開業した直後の京都駅付近の状況を示している。右が北で京都中心部、左が伏見線方面を示す。①でも紹介した、旧線時代の東海道線の直前まで、京電の伏見線、市内線が伸びてきて、踏切で対面している様子が分かる。ホントにこんな直前まで線路があったのかと思うが、京電は、東海道線との平面交差の申請を何度も出しているので、その準備として、伸ばせるところまで伸ばしていたのだろうか。京電に沿って愛染川が流れていたこと、また今の感覚から見ると、東洞院通と竹田街道は、別の通りのように見えるが、同じ一本の道だったことがよく分かる。▲②でも記したように、明治34年に高倉新道ができて、京電が陸橋を架けて、東海道線を越し、伏見線、市内線との一体化ができた。上記の東洞院の踏切付近の両線は廃止されて、新線に移った。東洞院七条下るにできた車庫、また塩小路高倉に見られる、カーブ半径を大きくするため、渡り線部が交差している様子が分かる。
▲京都駅が南へ移設されて、東海道線が新線となった大正時代の高倉陸橋の様子。「旧線」と書かれた左にある出っ張りが、②で紹介した今も残る橋台。
大西先生の手書き地図を拝見し、これほどまで詳細に調査されたことに驚き、どれほどのご苦労をされたことかと感謝の念に堪えません。1・2枚目は鉄道ピクトリアルの「京都市電訣別号」で見ておりましたが、白状すれば細かくは見ていませんでした。直角に曲がる交差点での配線の工夫も、高さを稼ぐために東洞院通を越えた辺りから築堤になっていたことも、気が付きませんでした。いえ、それ以前に東海道線の位置からして勘違いしており、先入観からか京電開業時も現在と変わらないものと決めつけていたようです。塩小路高倉で人気のラーメン店の辺りに、初代の木造橋があったようですね。
それともうひとつ、八条口の火力発電所ですが、京電の発電所の存在だけは何かの本で読んだのか知っておりましたが、向かい側に京都電燈の発電所があったとは知りませんでした。
大西先生の調査に感謝するとともに、貴重な資料を公開してくださった総本家様にも感謝いたします。
紫の1863さま
大西友三郎さんの地図は、ピクトリアルにも載っていますが、縮小されて、細部が分かりませんが、今回載せたものは大きくて、細かいところまでよく分かりますね。お書きの高倉陸橋の人気のラーメン店は、先般も通ると、若い男女の長蛇の列が出来ていました。彼ら、彼女は、もちろん知る由も無いでしょうが、その足許で、京電の歴史が刻まれていたのですね。八条口に対峙していた発電所ですが、その後の経過がはっきり分かりません。京電が発電事業を京都電灯に譲渡してから、増設したのでしょうか、大西さんの記事にも記載はありませんが、京都電灯の年史があるようですから、確認できるかも知れません。