市電が走った街 京都を歩く 四条線⑦

四条京阪前 ②

「四条京阪前」で京阪電車と交差する。当時は遮断機もなく、交通信号と警手の笛だけで行き来していた。京阪電車のすぐ横を、歩行者が横断していった。

「四条京阪前」の北側には京阪電車四条駅、南側には南座があります。四条河原は、出雲の阿国が舞った踊り、つまり歌舞伎の発祥地と言われ、南座は、公認された踊りを舞う劇場として、その歴史をいまに伝えています。明治時代に北側にあった北座もなくなり、南座だけが、歌舞伎の発祥地に残った唯一の劇場です。昭和4年に由緒ある桃山風破風造りの豪華な劇場を竣工させて、京都の代表的な劇場として、多様な演目を採り上げて来ました。とりわけ歳末の吉例顔見世興行は、一度も絶えることなく続けられてきた京都の年中行事です。

そして眼前からは、警笛の音が聞こえて来ます。四条線と京阪電車が平面交差していて、四条線の開通は大正元年、京阪電車は最初に五条まで開通し、三条まで延長されたのが大正4年、以来、京阪電車と市電の平面交差が60年近く続けられて来ました。市電が消えて、京阪電車が地下に潜って、川端通が拡幅されて、すっかり付近の様相は変わったものの、改修された南座、菊水ビル、東華菜館など、また四条大橋から見る右岸の街並みなどには、50年前と変わらない風景があります。これも京都ならではと言えるでしょう。

南座に顔見世の「まねき」が上がると、年も押し詰まってきた思いに。 改修される前の南座を背にして四条大橋を渡る。東華菜館をバックに、西行きの1号系統が四条大橋を渡って行く。この建物から、京阪、市電の交差風景が、乙訓の古老による歴史的な写真をはじめ、多くの人びとによって撮られた。京都交通のバスと併走しながら、四条大橋を行く。当時は、何の規制もなく、競って大きな広告を上げていたことがよく分かる。京阪電車が通り過ぎると、市電と市バスは、競うようにして飛び出した。

 

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