また小ネタで失礼します。昨日九大医学部(九大病院)から箱崎(筥崎宮)界隈を歩いていたら懐かしい風景に出会いました。福岡市内線の貫通線(貫線)の面影が今に残るポイントです。街の中心、天神町を出発、東中州、博多部の中心呉服町を通過した後、千代町を過ぎると専用軌道に入り大学病院前、東車庫前、馬出、箱崎まで専用軌道が続きました。その馬出(まいだし)電停が今もバス停に使われています。線路跡はバス専用道路になっています。
箱崎本通りと電車が交差する場所がここです。箱崎、馬出は九大の街、子供のころは本当ににぎやかな街でした。残念ながら医学部(病院)を除く全学部がJR筑肥線の沿線に移動、寂しい街になってしまいました。以下は昨日フェイスブックに投稿した文章です。皆様の想い出、ありましたらお寄せいただけますか。お待ちしてます!!
『箱崎本通りをまたまた歩いていたらここ! 昔の市内電車の馬出電停。40年以上前の面影、今に残っています。バスじゃなくて電車が来んかねぇ、さっきからずうっと待っとうばい・・はよ来んね』
おとりん様
いつも懐かしい九州の小ネタ、大ネタ、ありがとうございます。「馬出」、私も行きましたよ。約50年前のある日、天神から貫線沿いをずっと歩いて九大前まで写しました。カンカン照りの暑い日でした。記憶も薄れかけていますが、「馬出」の電停看板のある写真が出てきましたので、ほぼ同じ場所で撮られたものでしょう。右の白い建物が、50年前の城戸商店でしょうか。
連投失礼します。
例の大手旅行会社の出版部門が出した「福岡・北九州市内電車が走った街今昔」の16ページを見ますと、「馬出」の今昔対比があり、「写真右手の餃子とカレーライスの店“旭軒”と、左の簡素なホームは健在」と解説がありました。もう1枚、その旭軒が写っている写真もありました。当時は地上の電車は賑わっていた印象がありますが、地下鉄ができて、地上からは人が消えたのでしょうか。九大が移転したのは知りませんでしたが、あの付近は、有名な福岡高校とともに文教地区だったのですね。
総本家青信号特派員先輩 おはようございます。いつもありがとうございます。1枚目の写真、まさに同じアングルですね。1番の黒い看板の電車、当時の系統番号で1,10,20番が九大前発の電車でした。餃子の旭軒は最近まであったはずなのですが、今回見当たりませんでした。
コメント中、我が母校にも触れていただき重ねて御礼です!千代町から循環線の次が潟洲町、毎日ここで降りて登校していました。以前投稿したと思いますが当時の電停の表示板、母校の庭に保存されています。在学中に電停の名前が町名変更に伴い学校の名前に変わりました・・・城戸商店の件、今度見に行ってきます!
おとりん様
写真が当時を思い出すきっかけになって、良かったです。私も当時の地図と、ストリートビューを見比べながら、確認していました。すると、同じ「馬出」なのですが、おとりんさんが写された洋品店「しばた」の前の電停跡は九大方面行きの乗り場で、私の写した「城戸商店」前は天神・姪浜方面行き乗り場ですね。ストリートビューで確認しますと、城戸商店は、沖縄そばの店などがある長屋に、旭軒は駐車場になっていました。さらに、アングル材で組んだ当時の架線柱がまだ残っていました。たぶん私の撮った旭軒の左に写り込んでいる架線柱です。
あと、昭和48年まで、潟州町あらため福高前と千代町のあいだに「西門通」があり、ここから吉塚線が分岐していました。この線は国鉄線と繋がっていて、狭軌線も含めた三線式になっていました。三線式は千代町、千鳥橋を通り、環状線から分岐した狭軌線は、貨物専用線の博多築港まで伸びていて、国鉄貨車が乗り入れていました。貨車を牽いたのがポール集電の真四角の電動貨車でした。昭和48年に吉塚線とともに、貨物線も廃止されました。
総本家先輩 詳細な分析、ありがとうございます。1点だけ疑問点、『西門通(さいもんどおり)』電停は吉塚線廃止まで存在の記述がありますが小生の記憶では相当以前に撤去されたか、と思います。新潮社発行の日本鉄道旅行地図帳 全線全駅全廃線 の中で西門通の廃止時期が***となっています。廃止時期は不明の表記と思います。
いかがでしょうか。ご確認いただければ嬉しいです!!
おとりん様
今まで博多の街にはあまりなじみがなく、DRFC在籍中も市内電車の写真は撮っていませんでしたが、一昨年末娘が結婚してそのお相手が博多の人でした。昨年博多の街を案内してもらい、もつ鍋をごちそうになりました。うまかったですね。今年は博多山笠を見に行くといっていたのですが残念ながら中止となりました。
ちなみに彼のご両親は二人とも福高卒でした。鉄道の話題とは関係なく私事で失礼しました。
大津の86先輩 ありがとうございます!!ご息女のご両親、小生と同期生の可能性ありますね。今度御来福の際はぜひお声がけください。先輩はじめ皆様方とお会いしたいです!!実は昨日、同窓生とはしご酒、早朝の帰宅でした・・・
おとりんさんに泣きつかれた「西門通」の謎、調べない訳にはいきません。関連の書物を見るとJTB「福岡・北九州市内電車が走った街」には「千代町付近の西門通~博多駅前の開業を持って循環線を完成させる」とあり、開業時には設置があったことが分かります。しかし別ページの写真キャプションの撮影地を見ると「福高前~千代町」とあり、西門通の名が消えています。つぎに読売新聞福岡総局「さよならチンチン電車」の「潟州町」の項を見ると「潟州町の次は千代町」とあり、こちらも西門通はありません。どうやら途中で西門通は無くなっていた可能性があります。
鉄道線の場合、別方向へ分岐する本線がある場合、駅を設けて運転上の取扱いを行いますが、旅客需要が見込めない場合は、客扱いをしない「信号場」となります。市内線は軌道ですので、この限りではありませんが、貨物専用線のある三線区間で国鉄車両(貨車)も通りますから、鉄道に準じて、信号場としての機能を持った西門通を設けたのではないでしょうか。あるいは、貨物専用線には国鉄の機関車も通ることを想定していたのかも知れません。一時期は客扱いをしていたことも考えられますが、廃止前は単なる分岐地点だったのでしょう。いろいろ検索していますと、つぎのようなサイトに行き当たりました。
http://www.nishitetsu.co.jp/museum/library/04/124.html
会社はちゃんと西門通の存在を認識していますね。客扱いはしていなくても、運輸・運転上の分岐点として、西門通は存続していたのではないでしょうか。
総本家青信号特派員先輩 西門通(さいもんどおり)電停の詳細な経緯、ありがとうございました。にしてつアーカイブス、時々見ては子供のころの事、思い出しています。上記URLにある16番系統は貝塚~吉塚駅前、途中循環線を一周していました。吉塚線廃止とともに15番系統、貝塚~循環線一周~貝塚、に変更、そして貝塚線と循環線だけが最後まで残った(系統番号なし)と記憶しています。
千代町、福高前付近は昔の博多の街の景色、まだまだ残っています。今日は13日、いつもならあさって15日の早朝は山が博多の街を駆け巡るですが・・・
そのうちぜひ博多へお越しください。福岡ではなく博多の街へ、そして中州へご案内します。ありがとうございました。
*写真は西門通りすぐそばの昭和レトロ感たっぷりの酒屋です。
おとりん様
福岡、いや違った博多へのお誘い、ありがとうございます。いつもなら博多祇園山笠で街は大賑わいでしょうが、京都・祇園祭と同じく、中止で寂しい限りですね。さて、おとりんさんとの“西門通バトル”?を、暖かく見守っていただいている外部の方から、有益な情報をいただきました。それは鉄道ピクトリアルの特集「西日本鉄道」517号に吉塚線、築港支線のことが詳述されていて、築港支線は昭和36年2月休止、昭和38年9月廃止と記載がありました。ですので、昭和36年に西門通の三線区間は使用を停止している訳ですが、同誌には、昭和41年ごろまでそのままの姿を残していたとあり、その頃まで、見掛けの風景は変わりが無かったことになります。ただ、西門通の客扱い期間ですが、この方は、停留場名が記載された地図も発見されていますが、廃止時期は、ピク特集にも記載はなく不明です。以上、遅くなりましたが、ご報告です。