都電も定点対比してみる 5 ~路面電車あれこれ噺 (26)

都電「新宿駅前」 今昔

つぎは「新宿駅前」へ、とは言うものの、新宿駅前に都電の姿はなく、少し歩いた靖国通り、歌舞伎町の歓迎アーチの真ん前に電停がありました。ここは2面3線の終端式で、広い道路の中央にゆったりとあり、前記の通過式の渋谷駅前とは対照的でした。ここには12系統(新宿駅前~両国駅前)、13系統(新宿駅前~水天宮前)が発着して前年までは11系統(新宿駅前~月島)も発着、さらに、西側の国鉄ガードをくぐると、青梅街道の「新宿駅前」から14系統の荻窪駅前行きも発着していて、新宿には、11、12、13、14と並びの系統番号が揃っていましたが、撮影時点で残っていた12・13系統は昭和45年3月に廃止されます。世界の歓楽街「歌舞伎町」の真ん前に位置した都電「新宿駅前」、国鉄新宿駅からは少し歩くが、昭和27年に開業した西武鉄道新宿駅は真ん前となった。開業当時は、新宿駅に隣接した新宿通りにあり、昭和24年の靖国通りの拡幅に合わせて、新ルートに変更された。昭和28年には角筈で発着していた路線改良中の13系統も、新宿駅前に移転し、11、12、13の3系統が発着する「新宿駅前」が完成した(以下、昭和44年9月)。▲▲「歌舞伎町」の交通標識が見える、都電「新宿駅前」の現在。

最初、新宿に路面電車(東京市街鉄道)が通じたのは、明治36年のことで、現在の新宿通り、新宿アルタ前付近にあったと言う。かつてバラエティ番組で名を馳せた新宿アルタもまもなく閉鎖の予定で、真夏の午前中とはいえ、人がほとんど歩いていなかった。都電「新宿駅前」のある靖国通りを、国鉄ガード側の西から望む。天下の新宿駅前と言っても、安全地帯だけで、日除けの設備も何もない。3線はすぐ先でぷっつりと切れていた。▲▲都バスを入れて定点対比、ほぼ同じ高さのビルが彼方まで続く。「三菱の貸付信託」看板の三菱信託銀行が、ドン・キホーテになったようだ。

別の日、雨の「新宿駅前」に電車が集結する。この日はDRFCで受けていた国鉄の列車アンケート調査のアルバイトで東京へ行った。その前日が10.21の国際反戦デーで、新宿駅周辺は焼き討ちや駅の占拠など騒乱状態だった。当日も催涙ガスの臭いが漂っていて、学生と機動隊の主戦場になった大ガードの中に充満していて、通り抜けると涙がポロポロに出て来た。そんななかでも、都電はけなげにいつも通り動いていた(以下、昭和44年10月)。

13系統専属の4000形  木造の4000、4100、4200形の車体更新で生まれた。車体は6000形とほぼ同じ、全部で117輌が製造され、大久保、巣鴨、柳島などの車庫に所属した。昭和43年から廃車が始まり、残り全車が大久保に集結し、13系統専属で運用された。昭和45年3月に、大久保車庫廃止とともにすべて廃車となり、形式消滅した。11・12系統は、四谷三光町から新宿通りに移り、ともに四谷見附へ向かう。なお、13系統が昭和23年まで使っていた角筈付近の専用軌道は、移設後も車庫への回送線として使われ、現在も遊歩道「四季の路」として昔の線路跡を偲ぶことができる。

 都電も定点対比してみる 5 ~路面電車あれこれ噺 (26)」への3件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    都電の澁谷は有名な場所ですが撮ったことがりありません。新宿も撮ったことがありませんが、新宿3丁目で四ツ谷方向に曲がる交差点で数枚ありました。ここは総本家さんも撮られていて今更ながらようやったなと思っております。近くに新宿末広亭があります。この交差点は、今でもわかっている場所ですので1回定点対比撮影をやってみましょう。文中にあります都電の専用軌道のㇾールの遺構は見たことがあります。1968年5月27日新宿3丁目の⑫系統6081です。

  2. 1965年3月26日、早朝の新宿駅前です。
    前日、長岡21時20分発、普通列車上野行に乗り、上野に4時20分に到着。この日は、銚子電鉄に行くため、新宿発6時43分発「犬吠1号」に乗るまでの間、都電を撮影していました。

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