京都、大阪と来れば、つぎは東京しかないでしょう。はい、先日もネタ仕込みに行って来ました。京都のように縦横がきっちり決まっていて、曲がる時でも90度にしか曲がらない律儀な路線に比して、放射状に、好き勝手に路線を延長したような東京は、なかなか馴染めませんでした。旅の途中、列車待ちの間に撮った程度で、乗車したことは数えるほどしかありません。それでも、段階的に廃止が進んでくると、腰を据えて撮ったことがありました(以下、都電は昭和46年2月撮影)。
▲まずは日本の道路の起点となる「日本橋」へ。東海道など五街道すべてが日本橋を起点として、全国から人が集まり賑わいを呈した。現在も架かる石造りアーチの日本橋は、1911年にできた。市電(のちの都電)も同時に開業し、軌道の中心に架線柱を兼ねた「道路元標」が設置された(のちに移設)。その後、昭和38年に日本橋の直上に首都高速道路が通って、都電時代の姿になった。日本橋のある中央通を行くと銀座線とつながっていて、栄えある1系統(品川駅前~上野駅前)も走っていたが、銀座線は昭和42年に廃止されていて、撮影時は、次の「通三丁目」で線路はぷっつり切れていて、19系統、20系統、22系統が走っていた。▲▲現在の日本橋、背後のビルが全く変わらないのに驚いた。長年叫ばれて来た首都高速の地下化は、解体工事の様子がテレビ番組でも紹介されるなど進捗してきた。
3都市の市電・都電の規模を、最盛期に近い、手許の昭和33年の資料で見ると、
営業車輌 路線延長 系統数 一日乗降数
東京 1192両 213km 40系統 149万人 大阪 479両 93km 26系統 81万人 京都 340両 69km 19系統 60万人
これを見ると、東京は、車両数、路線長では京都の3倍、乗降数でも2.5倍あったことが分かり、京都市電を記録するだけでも大変なのに、都電となると、その3倍の熱量が要求されるとは、都電とは格別に図体が大きなものと改めて思いました。
▲北側から見た日本橋、架線中を兼ねた道路元標も見える。ビル全体に煌々と照明が点いているのも昭和の時代。屋上の「西川」は、ふとんの西川のようだが、調べてみると、京都、大阪の西川とは違う、日本橋西川のようだ。▲▲日本橋のたもとには、こんな煉瓦建築が。川と道路に挟まれた三角形の敷地に建っていた。
▲白木屋を出自とする、当時の東急百貨店日本橋店が日本橋交差点にあった。永代通りの「日本橋」電停に28系統が停車中。東急百貨店は1999年に閉店し、現在はコレド日本橋になっている。
▲永代通りの28系統、呉服橋方面を見ている。背後の高いビルはできたばかりの朝日生命大手町ビル。▲▲それが解体されて、いまは東京駅日本橋口前の再開発が進み、常盤橋タワーが建ち、まもなく日本一高いTokyoTorchができる。
▲銀座線がなくなり、日本橋の次の「通三丁目」が、当時の終点になっていた。都電はここで折り返していた。
総本家青信号特派員様
都電と言えばすごい人が当会OBにおられ私もいろいろと教えていただきました。日本橋などよくポイントを押さえられて毎度感心しております。私の東海道徒歩の旅も日本橋から出発しましたが桑名を越えた近鉄の伊勢朝日の踏切で止まったままです。三条大橋まではもう無理だと思っております。文中栄えある1号系統とありますが、1966年12月18日銀座4丁目で撮った1号系統品川駅の行先方向幕の6240号です。白木屋の名前を知っている人間は東京にも少ないと思いますが毎回いろいろ調査の上発表されて頭が下がります。
準特急さま
これぞ、都電の本家本元、銀座四丁目を行く、品川駅行きの1号系統ではないですか。さりげなく「銀座」の文字が散りばめられて、信号を渡る人の動きも絶妙です。憧れの写真を見せていだき、ありがとうございます。米手さんに劣らず、秘蔵のお宝写真、どんどん公開してください。私も公開するのは今しかない、との思いで一日一投を心がけています。
2017年3月24日、荒川線の7000形の引退記念に登場した都営バスです。
藤本哲男さま
日本橋の都バス、ありがとうございます。こんな都バスが走ったのですか。都電の車号まで書いてあります。「1」は、かつての1号系統を表しているのでしょうか。
1969年9月17日、日本橋交差点です。