送り火に京都市電を想う~路面電車あれこれ噺〈21〉

昨日16日は、京都では大文字の送り火の日でした。小さい頃から、慣れ親しんできた行事は、暑い夏も、朝夕は少しは涼しくなる季節の変わり目、また小学生の頃なら、そろそろ宿題も気になる、それがDRFCの現役時代なら、送り火を見届けてから、北海道などへ1ヵ月近い撮影旅行に出かけると言った節目ともなる行事、長じてこの歳になると、亡き人を送る宗教的な行事としての気持ちも持ったものでした。「大文字と市電」、むずかしいテーマだった。点火の20時台、撮影適地の今出川線百万遍~銀閣寺前の市電は8~10分ヘッドだったと思う。点火後、最初の白煙がなくなり、太い炎だけになるのは10分程度。その間に市電が来たとしても、クルマに邪魔されず撮れるかが大問題。そこで選んだのは「北白川」の安全地帯、ただ考えるのは誰も同じで、前方は撮影者が占めている。安全地帯のいちばん後ろに陣取って、銀閣寺方面の電車が停車したのを幸いに、その後部から軌道に一瞬飛び出して撮影する、決死の行動だった。今出川線の廃止が昭和51年3月、これを撮った昭和50年の8月16日が最後だった。

その次に来た市電ではもう火の勢いは衰えていた。見物を終えた客が集中するため、このあとは市電も特発される。

 

 

市電と送り火を語るには、“今”の市バスを撮るべきと、昨晩は河原町今出川で点火を待ち構えた。結果は、市電時代とは比べものにならないクルマの大渋滞、市バスを入れて撮ろうなど、甘い考えだった。

 送り火に京都市電を想う~路面電車あれこれ噺〈21〉」への8件のフィードバック

  1. 総本家様
    私も北白川電停で「大文字と市電」のコラボを写そうとしましたが、人と車の洪水の前にあえなく轟沈。撮影できたのは添付の1枚とあと1カットだけでした。総本家様が行かれた1年前の昭和49(1974)年8月16日、私が1回生の時です。大文字が点火している時に通過した市電は2~3本だったでしょうか。
    大文字の火が消えるとおびただしい見物客が一斉に市電・市バスに殺到します。錦林車庫ではそれに合わせて電車を増発します。電車の半数ほどは銀閣寺道や北白川などの停留所は回送扱いで通過し、加茂大橋や出町から客扱いを始める様子でした。車掌の乗ったツーマンカーがフル稼働していました。

    • 勘秀峰さま
      おぅ、その前年に「北白川」へ行かれていたのですが。私はどうだったのか、思い出せませんが、たぶん近くの丸太町橋で普通に見ていたと思います。今出川が無くなると聞き、やっと翌年行きました。勘秀峰さんの写真は、安全地帯から離れていますね。歩道から? それとも車道へ飛び出して、さらに決死の撮影だったのでしょうか。

      • 総本家様
        大文字の写真は歩道から135ミリの望遠レンズで写したものです。当然三脚の上にカメラは乗っていました。下のカット付近です。(写真は昭和48年8月8日)なにせ当日は人と車で撮影は思うに任せず、三脚を置く場所にも困るくらいでした。大文字の写真が上手く撮れなかったことで、半月くらいは落ち込んでいました。

  2. 五山の送り火が過ぎると、暑かった夏も終わりが近づいてきたといったのも昔のこと、今年は一向に秋の気配は感じられません。それでも猛暑日から解放されたものの、今日も暑い一日でした。
    暑さをものともせず、精力的な活動を続けられる総本家様には、なんと申せばよいのやら、ただただ恐れ入るばかりです。私は外出する気など起こらず、日がな一日クーラーの効いた部屋でズボラに過ごしております。昨夜の送り火もテレビで見るだけでした。
    市電がいたころと比べて京都にも背の高いビルが増え、送り火が見える場所は少なくなりました。北白川電停もマンションに隠れて大文字は見えなくなり、同じ場所での今昔対比はできないようですね。それに加えて安全地帯がなくなり、歩道からでは見えない場所が増えました。車のことを書いておられますが、京都府では昭和50年に60万台あまりだったのが、令和2年には134万台余りへと2倍以上に増加しているそうです。ヘッドライトも最近は異様に明るくなり、夜間撮影にはやっかいですね。
    今年の6月に河原町今出川で市バスを撮ったのは、偶然にも総本家様と似たような構図でした。

    • 紫の1863様
      いえいえ、私もクーラーつけっぱなしで、一日、部屋で怠惰な生活送っています。たまたま一時間ほど出掛けただけです。“異常な暑さ”とか言いますが、私はそう感じません。冷房を極限まで我慢して、日中は扇風機でしのぎ、寝るときは汗ズクズクになって寝ていた、ほんの数年前の方が、私にとっては、ずっと異常な暑さでした。
      さて、昼間の河原町今出川角からは、こんなに見えるのですね。「大」の送り火バックに加茂大橋を行く市バスを撮ろうなど、甘い考えでした。

  3. 河原町通を横切るカットもあります。信号を待つ自転車に乗った人の頭が入ってしまいました。昼間でも思うような写真を撮るのはむつかしいです。

  4. 総本家様
    大文字とくればやっぱり8月22日と23日の地蔵盆でしょう。
    河原町線最後の年に荒神口下ルの春日校区で写しました。(昭和52年8月22日)大文字と違い昼間で、見物客もいませんから、車がかぶっても、まあまあのカットになりました。この日は出町でも地蔵盆のカットが写せました。
    今は日程の都合で、お盆休みや8月22日・23日前後の土日、それも1日だけの開催もあると聞きます。子どもにとってはおやつが貰え、くじ引きが当たる地蔵盆もお世話をする人は大変のようですね。

    • 勘秀峰さま
      もう地蔵盆ですね。夏休みもいよいよ無くなって来て、宿題を気にしながら、地蔵盆に入り浸っていました。クルマの通りの少ない横丁で行われますが、町内によっては、河原町通りなど市電沿いであり、市電に乗っていても、ときどき眺められたものです。写真は、荒神口下るの上生洲町でしょうか。ちなみに私の町内は、日曜日の朝、年寄りだけが地蔵さんの前でお参りして終わりでした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください