帰ってきた米手作市

デジ青読者の皆様、
永らくのご無沙汰です。
巷には「米手は死んだらしいで!」との噂が出回っていたとか。
どっこい生きております。

実は昨年の後半頃から家内の体調が悪くなり、手術を繰り返しておりました。幸い生死にかかわるような事ではなかったのですが、やはり痛がったりしていると出歩くのは気が引けてしまいます。
さらに我が家が娘夫婦による乗っ取りに合い、彼女のマンションと交換することになりました。そしてその引っ越しの直前にまたまた家内の手に菌が入り、さながら豚足のように晴れてしまったのです。古い会員の方はご存じですが家内は免疫抑制剤を使い続けないといけないため菌に感染しやすいのです。結果引っ越しは私一人で荷造りから開封、設置まで一人でするハメになり、更には炊事洗濯までこなすスーパー爺さんになりました。

やっと家内の手も収縮しはじめて久しぶりにデジ青の画面に向かっている次第です。
宮崎繁幹さん、河 昭一郎さんはじめご心配いただいた会員の皆様、お礼とお詫びを申し上げます。

再開してもなにも資料が準備されていませんので、しばらくはコメント欄で構内試運転をする程度になりますがよろしくお付き合いをお願い致します。

最後にあたらしい我が家からの絶景をご覧に入れてご挨拶と致します。

※東寺の五重塔を背景に特急サンダーバードを追い抜く新幹線N700S。屋根はJR貨物・梅小路駅。毎日青い機関車が牽く22両のブルートレインや緑色の「青大将」更にはブドウ色の列車が行き交います。
ジョイントの音を聞きながら、お休みなさい。

帰ってきた米手作市」への29件のフィードバック

  1. 米手作市さま
    お帰りなさいませ。お待ちしておりました。暫くデジ青が無風状態(この間にご投稿の皆さまには失礼な申しようで申し訳ありません。クイズ形式などちょっとくだけていて、デジ青が大いに盛り上がった投稿が暫く途絶えていたという意味で)でしたので、また賑やかになることを期待しております。尤も無くもがなのコメントしかできませんが、よろしくお願いします。

    • 1900生さん
      早速のコメント、ありがとうございます。
      ほぼ半年のお休みを経ての再開ですが、気持ちが回復してきただけで家内の介護(右手が使えないので)は相変わらずです。
      貴兄達のコメントは読んでいました。留守中は会長はじめ準特急さん達に頑張っていただいていたことに感謝しかありません。
      今後とも暖かいご声援と罵詈雑言をお待ちしております。なお、当方も歳をとりましたので多少とも心臓が弱くなっております。その点に配慮してコメントいただけると幸いです。

  2. 米手作市様

    まさに「帰ってきたウルトラマン」です。スクラップ記事のご投稿をまた楽しみにしています。デジ青に嵐を巻き起こしてください。よろしくお願いいたします。

    • 奈良の駅名研究家さん、
      いつも感心しながら読ませていただきました。
      これだけの資料を良くそろえられたなと感心しきりです。
      スクラップブックもこれから整理して再開したいと考えて居りますので、その節は宜しくご指導お願い致します。

  3. 米手作市様
    いろいろ大変でしたね。私も多摩市永山にあります日本医大の9時の予約を今朝起きたら10時を過ぎており頼み込んで診察を受けて今帰ってきたところです。私もいろいろあちこち悪い所が出て来て難儀しとります。一昨日6日土曜日は三田会写真展の懇親会の会場で宮崎繁幹さんから開口一番「米手作市さんどうなっているのか」との質問を受け、間もなく復帰する旨お応えしました。米手さんらしいウイットに富んだ自主投稿や毒舌コメントを毎日でもお願いします。新しいお住まいは正しくトレインビューじゃないですか。蒸機や客車に加え最近の車両に関しても最高の環境にあられネタ切れすることはないと思います。責任感の人一倍お強い米手さんのことですからきっと今までの穴埋めを直ぐにしていただけるものと確信しております。

    • 準特急さん、
      永らくお会いしておりませんね。
      一度お目にかかりたく存じます。入洛の折はご一報下さい。
      ところで今日姪っ子が1.5歳の息子を連れてきましたが、鉄博から帰らないと泣き叫んだそうです。我が家へ来て窓から外を見たらまたまた大興奮で、未来のDRFC会員に推薦しようかと考えております。

      • 姪御さんの息子さんは心強いですね。将来のご成長、就中18年後のDRFC入会を楽しみにしましょう。ところで小生も1.5歳ではなかったですが、歩けるようになると50mほど先の大宮通りへ市電を見に出かけていたそうです。そうですというのは本人に記憶がなく、長じて家族や親戚から随分冷やかされて聞かされた話だからです。なんでも大宮通りの中央に敷かれているレールの傍まで出て行ってしゃがんでみていたそうで、見つけたご近所さんが母に「また出てはるよ~」と何度も知らせに来てもらったとか。その頃に線路傍に近づくクセが芽生えたと思われます。当時は大宮通りといえども車は殆ど通らず、たまに荷車が馬に惹かれてついでにお土産を落としていくくらいでしたから、何事もなかったなかったようでした。この頃の経験は怖いですね。一生を規定されてしまうかもしれません。ぜひ我々のような立派なファンになって頂くよう期待したいと思います。

  4. 米手さま、御帰還おめでとう存じます。以前にも増して、楽しく、格調高く、そして騒がしいデジ青となるよう、期待しております。復帰、第一弾の投稿をお祝いする意味で、Gordon Davisさんの記録から、ご当地のN電1号を貼っておきます。

    • 宮崎繁幹さん、
      ご心配いただきまして恐縮です。
      私は至って元気です。
      お祝いのN電写真はすばらしいですね。
      撮影場所はどこでしょうか?後の白い建物には見覚えがあるような気がしますが。
      これからもお付き合いをお願い致します。

    • はなはだ僭越ではございますが、米手作一様に代わって紫の1863めがコメントさせていただきます。
      背後の白い建物は米手様が「堀川御池の消防署」とおっしゃる通り、現在の中京消防署です。屋上には火の見櫓、壁面には消火用ホースらしきものが写っています。
      さて、現在のこの辺り、堀川は暗渠化され、N電が走る東堀川通は、拡幅された堀川通に飲み込まれてしまい、風景は一変しています。
      本日の堀川御池の様子です。二条城の南といえば、わかりやすいでしょうか。御池通のひと筋南、綾小路通から西北を向いて写しました。バスはN電の後を継ぐ50系統で、走り始めて63年になります。
      LED表示が見にくいのはご勘弁を。

      • 紫の1863さん
        ご無沙汰です。
        私の記憶を証明して頂きましてありがとうございます。よく見ると火の見櫓があったのですね。この当時は各消防署に火の見櫓・望楼がありました。天気のいい日はそこからホースをぶら下げて乾かしていたものです。

  5. 米手作市様
     これが京都や!といわんばかりの素晴らしいトレインビューの写真を掲載されてのご帰還、「お帰りなさい」とまずは申し上げます。
     大変な時を過ごされたことご苦労様です。奥様のご体調が良くなられることをお祈りいたします。それと米手様のお疲れが出ませんように願うばかりです。
     これから「デジ青」が米手様の切れ切れの文章やお言葉で益々賑やかになって行くことが嬉しい限りです。
     とても蒸し暑い毎日です。ご自愛ください。

    • マルーンさん、
      留守中はコメントに頑張って頂き,ありがたく想って読んでいました。
      あとはわらくろ屋社長の回復を待つばかりです。

  6. N電1号にいいね!、を頂戴したので、早速に続きおば。実は1号車の写真は数枚あり、米手さまにコメント頂くのには、格好の話題なのです。もちろん、他のご当地メンバーの方々も大歓迎です。1枚目と同じく、デービスさんの作品で、昭和31(1956)年5月の撮影です。三ツ矢サイダーの手書き広告があります。我が家は祖父の時代から、三ツ矢サイダー党でした。容れ物が瓶からペットボトルになり、今でも飲めますが。N電は無くなってしまいましたね。では、場所の解説を宜しくお願い致します。

    • こちらは京都駅の西、西洞院通に入ってすぐの場所で、N電時代には「三哲」の停留所がありました。西洞院以西の塩小路通りは拡幅され、バスや車が頻繁に行き交っています。靴屋があった南側は背の高いビルが林立し、昭和31年とは隔世の感があります。西洞院通もすっかり変わりましたが、なんと、デービス様の写真に見える木造家屋が残っていました。「三ツ矢サイダー」の看板がある店はコインパーキングに姿を変えましたが、隣の家は窓などに変化は見られるものの残っていました。
      市バスは50系統、N電の後継者です。

      • 撮影地を教えて頂き、有難うございました。70年近くが経ち、京都市街も高層化が進んでいますね。それでも当時の建物も残っていて、こうして同定できるのだと、感心しました。しかし、ここら辺りではないか、と当たりを付けて探すことは、地元の方でないとできませんね。1号車の写真は、あと2枚あるので、お楽しみに。

      • 西洞院通は最近も歩いたのですが、こんな旧家がN時代のまま残っていたとは知りませんでしたよ。N電と同じ位置に、市バスを置くとは、これまた憎い! 50号系統もウンと減りましたから、待つのもたいへんだったと思います。

        • N電の撮影場所はスグわかりましたので、ストリートビューを確認したところびっくりしました。変貌著しい京都駅周辺で、まさか残っているとは…。絶句です。市バスを置く手法は、総本家様の真似をしました。江戸の敵を長崎で討つ例えではありませんが、電車の代わりに市バスを写すのも一興かと思います。
          バス停の時刻表を見れば、来るまでの時間がわかりますし、ほかにも楽しみがいろいろとありますので苦になりません。
          塩小路通りの写真は偶然の産物です。サロンにお邪魔するまでの時間に、塩小路通りもずいぶん変わったなあと、ついでに撮っただけです。

  7. N電1号車ネタの次の1枚を御紹介します。前2枚と同じく、Gordon Davisさんが同じ機会に撮影されたものです。ひとつ前の写真は北野行きで、これは京都駅行きなので、折り返してきた電車を捉えたものかもしれません。さて、ここは何処でしょう?宜しくお願い申し上げます。

    • 宮崎繁幹さん、
      昨年の会合は失礼致しました。今年も機会があれば必ずご尊顔を拝しに行くつもりです。
      さて、紫の1863さんに回答頂きましたが、今回の場所は分かります。塩小路新町の西側で、現在はauの入っているビルあたりです。電車はまもなく終点・京都駅前に着きます。

    • さすがは米手様、私の出る幕はございません。しかし、少々補足をしたいと思います。デービス様の写真右端に見える自転車のあたりが、「新町通」でしょうか。画面には写っていませんが、すぐ右手に関西電力のビルが、左手には市バスの三哲車庫がありました。N電1号は現在の市バス下京区総合庁舎前バス停付近を走行中と思われます。
      添付の画像は堀川通から京都駅方向を写したもので、遠くの山は東山です。手前の横断歩道はN電が走っていた「西洞院通」、奥は「新町通」で関西電力のビルは健在です。左手の斜めになった市バスのあたりにバス停があって、N電1号の位置は多分このあたりかと。

      • 紫の1863様
        この前、キャンパスプラザから宴会場へ向かう道すがらも、さかんにバスの写真を撮っておられましたね。何か塩小路を行くN電を宮崎さんから寄せられることを見透かしたかのようです。紫さんが、こんな予知能力を持っていたとは !

  8. 米手さま、紫の1863さま、色々と教えて頂き有難うございます。やはり地元の方に伺うのが、一番の感を深くしました。さて、この写真は小生がメリケンで勤務していた頃、入手したもの。写真裏に、Stephen D. Maguireのスタンプが、捺してあります。この方は、著名な電車ファンですが、日本に来たとは聞いていないので、原版の所有者の意味かも知れません。ところで小生もデジ青で随分と勉強させて頂き、京都に住んだことも、現役N電を見たこともありませんが、この写真は解説できると思います。この1号車、これまでの3枚の1号車とは、違う車です。側板に継ぎ目がありません。これは昭和27年に廃車となった、旧1号。撮影は車体の英文表記から、昭和21年頃から、廃車迄の間です。場所は、左側に鳥居が写っており、北野終点ですね。この頃は、狭軌を意味する“N”が車番にあります。因みに2代目1号車の旧番は、N112号だそうです。興味をそそられたのは、デッキ脇の側板にある英文表記に、“OFF LIMITS TO OCCUPATION FORCES”とあること。これだけだと、「占領軍は立入禁止」になってしまうが、隣に縦書きで「室外乗車禁止」とあるので、これはデッキ部(=運転台)の乗車を禁じたものと判る。しかしこれで、日本語が読めない占領軍に、判ったのだろうか? ワルの占領軍兵士に乗っ取られ、N電を堀川に転落させられた京都人が、意気軒昂なところを見せたものでしょうか。と云う訳で、米手さま復帰祝賀、N電1号の御話しも終着です。御乗車有難う、存じました。

    • 宮崎繁幹さん、
      ありがとうございました。
      このN1は知りませんでした。
      いまも西洞院通を通ると、往時の風景と重ねてN電時代を思い出します。私の小学校区が西洞院通まで入っていたので、この写真の場所は遊び場でした。

    • 宮崎様には珍しい貴重な写真を見せていただき、あつくお礼を申し上げます。
      この場所はまさしく終点の北野で、子供の頃よく遊んだ場所です。車体側面の表記は知りませんでした。
      電車の右手に人だかりが見え、マスク姿の女性の後ろには道路に品物を並べた男性も見えます。これはひょっとして、毎月25日に開かれる「天神さん」の縁日ではないでしょうか。服装を見ると寒い季節のようですね。
      撮影の時期は、もう少し絞れそうです。昭和20年代のN電が載った写真集をひっくり返しますと、昭和22年ころという写真にはポールが2本見え、昭和26年5月撮影では車体正面の英字表記が小さくなっていました。昭和23年の写真は番号違いですが、ポールも英字表記も、側面の日本語表記もぴったり一致しました。昭和22年から26年ころまでの撮影でしょう。
      写真の右手方向に一分も歩くと、花街の上七軒歌舞練場があります。夏場は舞妓さん・芸妓さんに会えるビアガーデンとして人気ですが、戦後の一時期は「北野倶楽部」の名前で占領軍の娯楽施設として使用されていました。生バンドがジャズを演奏するなか、酒を飲み、ダンスに興じたことでしょう。N電を堀川に転落させた兵士も、北野で遊んだ帰りだったとか。
      北野白梅町近くにはテニスコートのある米軍の施設が、金閣寺付近にも正体不明の施設があったようです。「千中」の歓楽街も近く、夜には占領軍の関係者がそぞろ歩きをしていたのでしょう。
      私が子供のころ、いつも遊んでくれた近所のお姉さんのひとりに、色の白い物静かな女の子がいました。彼女は昭和29年生まれで、お父さんはアメリカ人でした。お母さんは彼女を親戚に預け、帰国するお父さんと一緒に渡米したとか。中学校を卒業するころ、彼女は引っ越していったのか、姿を見なくなりました。N電に書かれた英字表記を見ると、優しかった彼女のことを思い出します。

  9. 「終着です。御乗車有難う、存じました。」などと言って、直ぐ投稿するのを御許し下さい。ひょっとして、N電1号の写真は未だあるんじゃないか、とヒラメキまして、棚をごそごそやったら、発見したのです! まぁ御覧になって下さい。小生の亡くなった鉄友、山本明弘さんの作品で、昭和30~31年頃の記録と思います。手前は、今では暗渠になったと云う堀川でしょうか。奥の、長~い白壁は、もう無いでしょうな。電車通りで撮影して車も人も、写り込まないなんて、今の京都じゃ考えられませんね。

  10. もう終わりかと寂しく思っていたのですが、また楽しめます。
    この場所は二条城の前、電停では「二条城前」付近ではないでしょうか。白壁が長く続く邸宅は、福井藩邸があったところです。今もこのような風景が見られると素晴らしいのですが、残念ながら見ることはできません。現在は高級ホテルになりましたが、以前は京都国際ホテルでした。建設はN電廃止のころすでに始まっていたようで、6月30日に総本家様が投稿された「鉄道少年の時代に戻ってみる<1>」に建設中の様子が載っています。
    堀川の暗渠は御池通以南で、二条城前は整備されて親水公園になっています。余談ですが堀川は二条城の外堀的役割があったようで、西側(山本様の写真の反対側)はお城の石垣のような石が使われていて、普請を請け負った大名の刻印が見られます。
    N電が走っていた東堀川通の、とあるマンション入り口に模型が展示されていて、番号はズバリ「1」です。

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