新・ここはどこ?私はだれ?【中村進一氏のアルバムより】-6- 投稿日時: 2019年6月2日 投稿者: 米手作市 先を急ぎます。今回は関東の車輌が多いようです。 (1)クモハ73902 (2)日光線 (3)右端の車輌は何なのか?何が書いてあるのか? (4)これは阪和線? (5)“合いの子電車”の原型 (6)城東線 それにしてもエラいところで撮ったもの! (7)クロハ69002 (8)モハ51021大ミハ (9)モハ54009大ミハ (10) この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 新・ここはどこ?私はだれ?【中村進一氏のアルバムより】-13- 新・ここはどこ?私はだれ?【中村進一氏のアルバムより】-12- 新・ここはどこ?私はだれ?【中村進一氏のアルバムより】-11- 新・ここはどこ?私はだれ?【中村進一氏のアルバムより】-8- 新・ここはどこ?私はだれ?【中村進一氏のアルバムより】-5- 新・ここはどこ?私はだれ?【中村進一氏のアルバムより】-4- 新・ここはどこ?私はだれ?【中村進一氏のアルバムより】-2- 新・ここはどこ?私はだれ?【中村進一氏のアルバムより】
2枚目はクモハ40とその片運転台撤去車のクモハ41です。 3枚目はクモハ73055改造の中央鉄道学園の教習車クモヤ92000です。 教の字が書かれています。 4枚目は天王寺ー和泉府中とかかれていますので、阪和線クモハ20の0番台他ですね。 6枚目のクモハ73は運行窓二桁なので若番車ですね。 返信 ↓
(4)の写真は天王寺駅ですね。右側の線路は和歌山、新宮経由の名古屋行夜行普通列車などの回送線が写っています。もうすぐ寺田町駅あたりの引上げ線からバックで阪和線ホームへ押し上げられていました。今でもこの部分のブラタモリ風にいうと痕跡が残っています。見るたびに、ああ~あそこを客車列車がはしっていたのだなあ、と思い出します。 返信 ↓
タイミングがずれたコメントになりましたが、小生もどですかでんさまと同様その連絡線にはずっと関心があり、環状線で通る度に必ず見ていました。紀勢線の夜行列車廃止後も長い間放置されていましたが、そのうち軌道が撤去され、ちょっと前に擁壁と路盤の一部が潰されました。 長期間関心を持っていた理由は、この連絡線がかなりの急勾配だったことです。電車ならまあ楽に登れたと思いますが、南紀夜行の客車は龍華区の所属でしたから、天王寺発着の度にこの連絡線を登り降りしていたことになり、荷物車を含めて最長8両ほどの客車をよく押し上げられたものと今でも訝っています。かつてはSLだったに違いなく、どの程度の速度で押し上げていたのか、また阪和線内牽引の古くはEF52やED60とはどこでカマ替えをしていたのかなど、考えれば考えるほど興味が尽きませんでした。尤も百聞は一見にしかずで一度見に行けば疑問は氷解していたのでしょうが、22時台に用もないのに天王寺まで行くことがかなわず、ついに今日に至っています。どなたかご存知の方が居られましたら、是非ご教示賜りたくお願い申し上げます。 返信 ↓
2枚目の場所は終点の日光と推定します。理由は、撮影者の足場も含めホームの数が多いこと、右手奥の貨車(古河電工の貨物は国鉄経由で出荷されていた)、貨車の後ろの東武との木造仕切りです。今やおぼろですが此の仕切りを東武側から見た記憶あり、昔要人の日光入りは国鉄で(貴賓室もあり)東武の薄汚いデハ5系などを尊い方々の目から隠すため?と今思いつきました。(私は国鉄で日光へ行ったことは一度もありません) 返信 ↓
2枚目はクモハ40とその片運転台撤去車のクモハ41です。
3枚目はクモハ73055改造の中央鉄道学園の教習車クモヤ92000です。
教の字が書かれています。
4枚目は天王寺ー和泉府中とかかれていますので、阪和線クモハ20の0番台他ですね。
6枚目のクモハ73は運行窓二桁なので若番車ですね。
ほへほへ様、
あの奇妙な記号が『教』の字ですか!?
(4)の写真は天王寺駅ですね。右側の線路は和歌山、新宮経由の名古屋行夜行普通列車などの回送線が写っています。もうすぐ寺田町駅あたりの引上げ線からバックで阪和線ホームへ押し上げられていました。今でもこの部分のブラタモリ風にいうと痕跡が残っています。見るたびに、ああ~あそこを客車列車がはしっていたのだなあ、と思い出します。
タイミングがずれたコメントになりましたが、小生もどですかでんさまと同様その連絡線にはずっと関心があり、環状線で通る度に必ず見ていました。紀勢線の夜行列車廃止後も長い間放置されていましたが、そのうち軌道が撤去され、ちょっと前に擁壁と路盤の一部が潰されました。
長期間関心を持っていた理由は、この連絡線がかなりの急勾配だったことです。電車ならまあ楽に登れたと思いますが、南紀夜行の客車は龍華区の所属でしたから、天王寺発着の度にこの連絡線を登り降りしていたことになり、荷物車を含めて最長8両ほどの客車をよく押し上げられたものと今でも訝っています。かつてはSLだったに違いなく、どの程度の速度で押し上げていたのか、また阪和線内牽引の古くはEF52やED60とはどこでカマ替えをしていたのかなど、考えれば考えるほど興味が尽きませんでした。尤も百聞は一見にしかずで一度見に行けば疑問は氷解していたのでしょうが、22時台に用もないのに天王寺まで行くことがかなわず、ついに今日に至っています。どなたかご存知の方が居られましたら、是非ご教示賜りたくお願い申し上げます。
2枚目の場所は終点の日光と推定します。理由は、撮影者の足場も含めホームの数が多いこと、右手奥の貨車(古河電工の貨物は国鉄経由で出荷されていた)、貨車の後ろの東武との木造仕切りです。今やおぼろですが此の仕切りを東武側から見た記憶あり、昔要人の日光入りは国鉄で(貴賓室もあり)東武の薄汚いデハ5系などを尊い方々の目から隠すため?と今思いつきました。(私は国鉄で日光へ行ったことは一度もありません)
車楽斉様
コメント、ありがとうございます。
私は日光は国鉄で行ったことが一回しかありませんので全く記憶がありません。東武との距離関係がこんなに近いことも知りませんでした。