続いては、気動車とディーゼル機関車です。
(11-1)準急「きのくに」白浜口 1958.12.27
(11-2)第4大和川橋梁
(11-3)キハ0627 高砂線加古川鉄橋
(11-4)特急しなの
(11-5)キハ20系x4+キハ17系x2 京都駅山陰線ホーム
(11-6)尾久方向から赤羽駅へ進む準急「日光」 右は赤羽線の73系電車
(11-7)準急「丹後」京都駅山陰線ホームキハ55系x5
(11-8)キハ35903千チハ 1963.5.26宇野昭氏撮影
(11-9)キハ911 本千葉 1966.4.21宇野昭氏撮影
(11-10)キハ152 「東飯能ー大宮」と読めるので川越線で使用中。大宮機関区
(11-11)準急「浜風」下総中山駅を通過する下り準急浜風
(11-12)準急「日光」土呂ー大宮 右は東武野田線
(11-13)東北方面修学旅行用「おもいで」 上野駅
(11-14)新井~二本木を行く上野行き信越白鳥 15:30頃から16:00頃、時期は3月末から4月初め頃
(11-15)「白鳥」とC58とEF58
(11-16)二両目がキサハ04301 関西線河内堅上付近 左奥の民家方向へ旧亀の瀬トンネル方向廃線跡
(11-17)米国ホイットカム7t機京都ガス会社(後の大阪ガス京都工場) 京都市新京極・谷口電栄商会
(11-18)京都ガス会社(後の大阪ガス京都工場) 京都市新京極・谷口電栄商会
(11-19)DD12ではない。8587は米軍相模原補給廠で使用されていたそうで、1960(昭35)年八幡製鐵のD402となり、最後まで8500形式として働いていた機関車です。
(11-20)DD201 田端機関区 昭和39年頃
(11-21)DF5025 新製後、一ヶ月だけ米子にいて京都で見られた。たぶん昭和33年9月~10月か? 京都16:00発下り急行「白兎」
(11-22)DF501+DF50 長野駅と思われる。
(11-23)DF901 上野駅 1971年東能代で廃車
(11-24)DD51 50系客車
関連
11-3は国鉄高砂線の加古川鉄橋ではないでしょうか。架線があるのは山陽電鉄本線。但し山電の橋脚が現在の形状と異なっているのが気にはなりますが。キハ0627は加古川機関区に配置されていたことも傍証です。11-17,11-18は初めてお目にかかる珍妙な貨車移動機です。湯口大先輩の講釈を聞いてみたいところです。
11-17・11-18は、西尾克三郎氏の「ライカ鉄道写真全集」1巻にも載っております。どちらも京都ガス会社にいたようで、11-17は米国ホイットカム製、11-18の方はドイツ製と思われるとの記述がありますが、それ以上は分かりません。
11-16は関西本線の河内堅上でしょうか?
11-16は間違いありません。地元の人間が言うのですから。
撮影場所は京都中央市場付近の大阪ガス京都工場引き込み線でいいのですね?新京極の土産物屋でブロマイドとして売られていた写真のようです。
11-18には中央市場と直結したホームが見えますので、丹波口駅の構内と思います。
(11-18)、コッペルの内燃機ではないかと思っているのですが、未だ証拠が挙げられません。何方か資料をお持ちではないですか?
(11-17)は、米国ホイットカムの7t機です。ネット上で拾ったものですが、米国で保存されている同系機の写真を貼っておきます。
(11-19)に「DD12」とありますが、これは正しいようで厳密には誤りです。
みなさんご承知の通り、進駐軍が持ち込んだGE 47-ton機、US ARMY 8500ですね。GE(ゼネラル・エレクトリック)製ですが、エンジンはキャタピラー社製の180psが2基、これでGE製発電機を回し、GE製モーターにより駆動する、電気式ディーゼル機関車です。
1945年製で、フィリピンで使用していた6両(No.8584 – 8589)と新造の2両(8592,8593)を部品の形で日本に移送。1946年に13両分が到着、に大宮工場で8両が組み立てられました。(残りの5両分はどうなったのでしょうか?)
講和条約が発効してからは、米軍機としてではなく借り入れ機として引き続き国鉄が使用。1956年に、米政府と国鉄の間で購入契約がなされ、8両のうち5両が国鉄DD12になりました。(8585・8586・8588・8592・8593 → DD12 1・DD12 2・DD12 3・DD12 4・DD12 5)
(8584・8589)の2両は名古屋鉄道のDED8500形となり、(8587)は八幡製鐵のD402となりました。
つまり写真の(8587)は国鉄に編入されなかったのでDD12にはならなかったのです。
乙訓の老人の甥さまの記されたように、(11-19)はDD12になれなかった3輛のうちの1輛です。写真をよくみると“U.S.ARMY”と車番の間に、何か標記があるのが判ります。これは”3rd MRS”と解され、米軍第3鉄道輸送司令部のことです。同司令部は、1950年1月に編成替えとなり、第8010鉄道輸送司令部となったため、“3rd MRS”の表記はその後車体から消されています。従い、この写真は1950(昭25)年以前に撮られたものと思われます。8587号は、最後は八幡製鉄に譲渡されるのですが、他の8500形式がDD12になったり、名鉄に譲渡されたのは1956(昭31)年だったのに、8587のみ譲渡は、1960(昭35)年と後になりました。この間、8587号は、米軍相模原補給廠で、使用されていたそうで、日本では最後まで8500形式として働いていた機関車です。
乙訓の老人の甥様、宮崎繁幹様
DD12こと8500型の件、ありがとうございます。
私は8500はすべてDD12になったと思っていました。
いつだったか、アメリカ博覧会というのが開かれました。まだ子供でしたが見につれて行ってもらいました。その会場でこの機関車が展示してあったのを覚えています。後にその機関車がDD12として国鉄に編入したことを知りました。
『米軍8500が全部DD12になった訳では無い』を見て、一瞬エッ?と。
『DD12の前身は全部8500だった』が我が知識だったので、『全部が・・・訳では無い』に誤反応して???でした。(笑)
『8500形』の稼働や転籍の中身は結構複雑だったんですね。
スカ線内でたまたま見付けてパチパチ撮っただけの小生ごときには、改めて良い勉強になりました。
コメントが途切れた様なので、この記事に別れを惜しんで思いつくままもう少し。
(11-5) の場所は、今さらながらではありますが京都駅・山陰線ホームですね。
運用車両のウラを取ってませんが、手前からキハ20系X3+キハ17系X2の編成に見えますネ。
(11-7) 同じく京都駅のキハ55系6連。
黄色い車体の窓下に真っ赤なラインが『カッコ良かったですねぇ』って思うのは私だけ?
線路まで降りた撮影の立ち位置が又イイ。・・・って、今では問題なんですかネェ?
この頃は、『猫も杓子も』が撮る時代では無く、鉄道『ファン』と言うより『鉄道研究家』が殆どでした。
中にはそれに紛れた?小生の如き者も居ましたが、それなりの自制心があり、鉄道職員も黙認もしくは『気ィ付けや~』の時代でしたねェ。
(11-15) これも京都駅ですが、3世代?で出演ですネ。
中で個人的にはキハ82系特急専用車を大ムコや沿線で追っかけ回した思い出で一杯です。
(11-22) も京都駅で、西方からの撮影と見ましたが、結局京都駅しか判らない私です。
さてさて、元々小生の如き『旅行(移動)嫌い』には、『ここは何処?』への参加資格が無いのに、ついつい首を突っ込みたくなる『デジ青ファン』では有ります。
河 昭一郎様、
さっそく記録致しました。
ところで、どなたかに教えていただきたかったのは、11-6の撮影場所、11-9キハ911と11-23DF901のその後、11-13・11-14の撮影場所です。
それと僭越ですが11-22は京都駅ではないのでは?DF501が京都で見られることはなかったように思いますがいかがでしょうか?
後だし気味で恐縮ですが、まとめてコメントしたく存じます。
(11-9)キハ911 明確に撮影地、年月日が記されているので、感じだけで申し上げてはいけないと思いますが、1976年と云う、撮影年月日は疑問のように思います。この時代は、既に中央西線で「しなの」で運用されていたと思います。私も実見しました。
(11-13)「おもいで」は、東北地方で運用された修学旅行列車であること、ホーム屋間の支柱から、上野駅地平ホームと思います。
(11-19)写真の印象ですが、これは正に米手さまが見学した、アメリカ博の展示そのものではないのか?、と感じます。周囲に柵があり、子供が見学している様な感じから、普通の鉄道情景に思えません。周りに散らばっているドラム缶が、なんだかなぁとは思うのだが、これも実は情景として造られたものではないか。
(11-22)DF501 旧塗色&重連から判断し、長野区所属時代と思います。篠ノ井線か、中央東線の列車。テルハがある大駅なので、長野か松本ではないでしょうか。
(11-23)DF901 背景が小高く、手間に国電が走っていること。それにホーム間の屋根を結ぶ支柱(?)から、上野駅高架ホームです。
遅ればせながらコメントさせていただきます。
(11-9) 日付は1966年ではないでしょうか? キハ91 1は1966年に試作され、千葉地区でキハ90 1と比較検討されました。「試運転」の表示から、試験運転時の写真ではないでしょうか。
(11-14) キハ82の7両編成で、食堂車も繋いでいるようです。ヘッドマークには2つの文字が見えますが、判読は出来ません。せめて路線だけでも特定できると良いのですが、う~ん、難問です。
(11-21) 列車の上に見えるのは、大宮陸橋ではないでしょうか。市電の架線柱らしきものが写り、前に米手様が給水スポートの遺構を撮影された近くのように思えます。DF50 25は亀山に長く在籍しておりましたが、新製配置は米子でした。しかし、わずか1か月ほどで転属し、山陰線京都口での撮影は大変貴重なものと思います。
(11-22) DF50 1は1965年から1967年まで米子区に所属していて、京都駅に乗り入れていた可能性があります。しかし、茶色の車体、重連の二点から、宮崎様が仰るように中央東線、篠ノ井線での運用を考えました。テルハの形状が長野駅に似ています。
(11-24) タキイ種苗の前ですね。50系客車が山陰線に入った時期を正確には覚えておりませんが、1980年頃の撮影でしょう。
宮崎繁幹様、紫の1863様
後出し、結構です!だんだんよくなる法華の太鼓です。
まず、ご指摘の【11-9】ですが、写真を返したので裏に書かれたデータを再確認できませんが、こちらの記録では1976年となっていますが転記間違いかと思われます。お詫びして訂正致します。
【11-14】は、拡大してみても読めません。二文字ですから「白鳥」ではないかと思います。【11-21】はまさしくご指摘通りです。私がこの写真を取り上げたのは、「こんな場所でよく撮ったな!」ということでした。
【11-22】はご両人のご推察通りだと思います。京都駅のテルハはこの位置よりもう少し東にあったように思います。
このほか、SN様からもメールでいただいております。
皆様、ありがとうございます。
米手作市様
(11-22)は迂闊でした! ウラを取らずに手抜きでコメントするのは信用問題ですネ。
国鉄動力車配置表(鉄道図書刊行会編)で確認すると、1961年版では長野区に居ますが、1967年版では米子区に移っています。
しかし、考えて見れば架線の見当たらない京都駅も不自然ですし、DF50の重連が山陰線で定期列車を牽くのも解せない話ではあります。
何れにしても場所と言い、車両と言い小生に取って『圏外』の事に手を初めて、結果大チョンボとなってしまった事を大いに反省すると同時にお詫びする次第です。
河 昭一郎様、
わざとフェイントをかけられたと考えておりました。
これからもフェイントに惑わされないように刮目しながらキーをたたきます。
皆様、初めまして。80年度生の四方です。
(11-21)と(11-22)について僭越ながら補足させていただきます。
(11-21)の場所については、どなたも異論のないところだと思います。25号は1958(S33)年9月製造、1959(S34)年7月に亀山へ転出していますので、10ヶ月の間での撮影と考えられ、SGホースがないことから1959年4~6月頃の撮影かと思われます。なお、亀山から米子への貸出の可能性まで考慮するとこれ以降の可能性もありますが、ジャンパ栓受がないため1962(S37)年3月以前とまでは絞れます。(「蒸機の時代No.33」に、ジャンパ栓受を取り付けた25号の写真があります)
(11-22)の場所については諸先輩に全く同意で、テルハの左奥に隠れる屋根の形状が、仏閣型駅舎の長野駅のようにも見えます。撮影時期ですが、1号の機械室小窓が追設されていること、次位4号の操車掛用手摺が小型であること、SGが使用されていることから1960(S35)年10~12月頃の撮影と思われます。
貴重なお写真の公開、感謝申し上げます。
また、突然の不躾なコメントをお送りさせていただきましたこと、失礼の段、お許しください。
四方誠様、
的確な情報をありがとうございます。
ぶしつけでも失礼でもありません。若い方が初期のDF50について知識を持っておられることはすばらしいことだと思います。これからも教えてください。
ところで、【11-21】はスカートの塗装が新品なので出場間なしだと思われますが、光の加減では春か秋の午後に思えます。また、客車の窓が開いていることを考えると春なら3月後半から5月初旬まで、秋なら9月中旬から10月中旬までではないかと思います。昭和33年9月から10月の可能性は考えられませんか?
米手作市様、
ご指摘のとおり、スカートが陽に当たっているとはいえ綺麗すぎます。運転席窓上の黒い部分が気になっていましたが柱の影のようですので、昭和33年9月から10月の可能性もあると思います。ちなみに列車は16時頃発車の805レ「白兎」です。そう考えると、影の長さが秋っぽいような気もしてきます。
加筆、修正しました。
掲示板にご無沙汰してしまいました。
いつもながら貴重なお宝写真がテンコ盛りですね。
11-16ですが、列車の左側、ハエタタキから奥の家屋の方向は亀の瀬トンネルに至る旧線跡ですね。
ところで、この写真は17系もまだ新しそう(旧塗装?)で、電化の遥か前の頃でしょうか?とすれば、橋梁上に架線柱のようなものがありますが、これは一体なに???
戦前、関西線奈良までの電化計画があったが、西成線のガソリンカー事故で資材がそちらへ転用された、とかの話をどこかで見た記憶がありますが、もしや電化工事が施工されていて、その名残でしょうか?
鉄道に興味を高めつつあった幼少期より35系DCで何度も通っている区間ですが、その当時、架線柱の有無まではさすがに記憶にありません。
(11-16)の第4大和川橋梁ですが、架線柱のようなものが気になっていました。戦前から電化計画があったとは知りませんでした。昭和46年に一度だけ訪問しておりますが、ビームは取り払われて柱だけになっていました。画像を添付出来れば分かり易いのですが、あまりにもお粗末な写りですので見送りました。
「亀の瀬トンネル」・「旧線跡」が気になって調べてたところ、昭和の初めに地滑りがあって崩落していたのですね。何かで読んだ覚えがあったのですが、そんな過去があったとは知りませんでした。
(11-20)DD201 田端機関区と思います。DD201の当初配属は、田端区で、小生も見たことがありましたが、右隣に79658のテンダーが写り込んでいて、?と思いました。調べてみると、この96東京オリンピックの頃までは、田端に居たようなので、時期もその頃でしょう。
(11-22)DF501 長野で間違いないように思います。当時の長野駅は、四方さまの指摘にもある寺院風建築の本屋が西側にあり、東側には長野工場がありました。写真の2両目DF50上部に掛かる跨線橋は、工場へ行く為のもので、この先には出口は無かったと記憶します。松本駅は、今は東西自由通路が出来たが、昔は東側に本屋があったので、該当しないかと。
外部より初参加で失礼します。いつも貴重なお宝画像や海外の美しい写真、それに皆さんの軽妙洒脱な文章、感心しながら拝見いたしております。
学生時代は関西本線奈良~天王寺を4年間乗っておりました。うち最初の半年は未電化でDC通学を経験しました。(トシがバレますね。)
皆さんからまだコメントのない(11-2)について、既にお気付きの方も多いでしょうが、これは(11-16)と同じ、第4大和川橋梁です。(11-16)とはちょうど線路の反対側になります。大きなハエタタキや戦前の電化工事で建てられた?架線柱が(11-16)とは左右逆ですし、DCの幌の向きも逆ですね。
列車は先頭がキハ55の1次型(最初の5両のうちの1両。(11-12)の手前の車と同型。日光線に増備車が加わるにつれ、名ナコに転属。)、以下キロハ18、キハ51(?)と続きますので、名古屋行き準急(まだ「かすが」の名称が付く前かも?)でしょう。
ちなみに(11-16)については、10系DC5連のようですが、2両目の車は窓が明らかに10系とは異なり、戦前の流線型DCの中間車で当時ナラ区にいたキサハ04 301だと思います。
ほかにも(11-9)のキハ91や(11-10)のキハ15などは、DCファンにとっても貴重な画像と言えます。どうもありがとうございました。
まほろばの鉄趣味住人様、
お初にお目にかかります。
他人のフンドシで相撲を取る(と言われている)米手作市です。(11-2)の場所その他をご指摘いただきましてありがとうございます。
今後ともご愛読いただき、ご指導をお願い致します。
よろしくお願い申し上げます。
まほろばの鉄趣味住人様
11-16を見て、「関西線の17系か」と軽く流していましたが、貴殿のご指摘で確かに奈良区のキサハ04301に間違いないと気付きました。すばらしい観察眼に脱帽です。奈良区であくびをしているキサハ04301の写真は何度も見ているのですが、編成に組み込まれて走行中の姿を初めて見ることができました。貴殿のおかげです。実はわが社にもキサハ04301が配置されているのですが、実際にどのような運用されていたかがわからず、厄介者扱いでした。勾配の少ない平坦区間なら非力なキハ17でも4両つなげば何とかキサハ1両の面倒は見れることがわかりましたので、当社でも運用に組み込むことに致します。ご指摘ありがとうございました。
東京のSNさんから「遅ればせながら・・」と調査報告をいただきました。「時機を逸したので備忘録として・・」とありましたがあまりにも精密な調査なので掲載させていただきます。
写真(11-14)
この写真は新井~二本木を行く上野行き信越白鳥です。写真の右方向が上野方です。
先ずは上野行き信越白鳥と仮定して考えました。
写真から西日が台車からユニットクーラーまで真横からよく当たっていること。田は稲刈りが終わりから田植えの準備までの期間であることが分かります。当時の時刻表から直江津発15:10長野着16:36です。
これらから写真の撮影時刻はおおよそ15:30頃から16:00頃、時期は3月末から4月初め頃と考えました(太陽高度(角度)が稲の刈り取り直後の10月から11月では、3月末から4月初め(30°~25°)に比べ2/3程度と非常に低く影が掛かりやすく、きれいな写真がとれにくいと考えました。また積雪は3月末から4月初めには里山から消え、遠望される山の頂上付近に残雪がみられるものと考えています。)
太陽の方位は撮影時刻から西南西のやや西方向寄り(時計の文字盤表示では8時半頃)(太陽高度・方位計算サイトにより昭和30年代後半の3月末から4月初め頃15:30から16:00の新井駅の太陽方位は真北から251°~256°と計算)これらの条件から2万5千分の1地図を直江津から長野に向けて、候補になりそうな場所を探すと、新井~二本木間の上越市の久保田付近、「越後トキめき鉄道」(現在は「妙高はねうまライン」)の線路が、南―北方向から南西―東北方向に進路が切り替わる緩いカーブ
http://maps.gsi.go.jp/#15/37.001267/138.256738/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
が候補になります。この場所はカーブの内側を流れる片貝川を越えた段丘上に小高い丘(199.8三角点の周辺)があり、そこから列車を俯瞰撮影することができます。
更に写真の背景にある山についてはGoogleマップ
https://www.google.commaps@36.9949344,138.2438354,790a,35y,72h,72.78t/data=!3m1!1e3?hl=ja
で見るとマップ画面の上の方向に谷や尾根等の山容が酷似した山を見ることができます。これが一番の決め手です。画面左下の地図と表示された□をクリックすると平面地図になり鉄道の位置を確認できます。
個人的な希望ですが、同じ場所でナハ10系を従えたD51重連の上野行き急行白山の写真をぜひ見てみたいものです。ちなみに上野行き急行白山直江津発12:56長野着15:05です。
写真(11-11)準急浜風
この写真は下総中山駅を通過する下り準急浜風です。写真手前が千葉方です。
決め手は昭和41年の構内配線図がインターネット上に掲示されています。
http://railwaytrackdiagrams.web.fc2.com/chiba/hirai_etc.html
構内配線図から写真の中央から撮影地点に向かう渡り線、写真右の出発信号機及びその奥に見える貨物用の引込線を確認することができます。
また国土地理院 関東地方測量部に出向き空中写真を閲覧し、2つのホームと貨物荷扱い場の間を結ぶ細い踏切、出発信号機や貨物用の引込線の向こうにある土中に埋め込んだ古枕木の列(普通の古枕木を使った柵に比べ貨車の荷役をするため相当低い)も確かめました。
以上
SNさん、ありがとうございました。
どなたか、SNさんのご希望をかなえて差し上げてください!