羽村さんが遺したアルバムから 〈12〉

続いての羽村さんアルバム、京都市内で見られた電車・バスの紹介に移ります。撮影年月は、前回の京都駅の一年前の昭和26年10月、まだ戦後の色濃い時代、遠出して撮影するなど思いも寄らない時代で、地元を丹念に記録するのは、当時の撮影スタイルでした。
京都市バスのワンマンカーである。アルバムのネームには「いすゞ」と書かれている。京都市交通局の年表を見ると、昭和26年10月1日、ワンマンカーが運転開始とある。羽村さんのアルバムからは、年月までしか分からないが、ワンマンカーの運転初日に撮られた可能性もある貴重な記録だ。京都市バスのワンマンカーは、大阪市に次いで、日本で二番目だそうだ。


前部ドア横には「この車には車掌を乗せてありませんから十円さつ又は回数券を持ってお乗りください(原文ママ)」とある。さらに、「御池通五条通巡環線」と書かれて、地図も添えられている。運転士が車掌を兼ねるワンマンカーのため、安全面の不安もあり、まず道路幅の広い御池通、五条通でテスト運行を行い、順次、ほかの系統にも広げていったのだろうか。
写真で見ると、三色カラーのようだ。この時代の京都市バスは以前にも紹介したベージュ&濃青の2色だった。この色をベースに、ワンマンカーであることを一目で認識させるため、オレンジなどの暖色を中間に配したような感じに見える。今も続く、グリーン濃淡の塗装は、この翌年、正式な京都市交通局の発足を記念して始まった。なお、撮影場所は記載がなく不明。京阪三条駅に並ぶ、京阪628号先頭の直行大阪行きと、奈良電1008号の奈良行き。奈良電は1両単行で、京阪車より前のホーム先端に停車している。これは、当時のホームが乗降分離式で、後部が降車ホーム、前部が乗車ホームに分かれていたためである。昭和31年に特急5連化により、2つのホームが一体化される。鴨川との間には、遮るものがなく、三条大橋がよく見える。
三条駅の京津線ホームの終端部から、線路はさらに一本伸びて、三条駅の東南部まで延びていた。以前、当会の湯口さんがP誌に同じ場所で撮られた貨物電車の写真を発表されているが、このように、旅客車の留置にも使われていたことが分かる。
大好きな阪急も何点か撮られているが、そのうちの1点、左手の愛宕山から、桂駅の構内と分かる。電車が入線するのは、現在の2号線ホームであり、京都行の急行を後追いしている。今は市街地化している桂駅西口は、純農村地帯のように見える。

 羽村さんが遺したアルバムから 〈12〉」への7件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員さま
    またまた想い出話で恐縮ですが、五条通りでワンマンバスを目撃していました。ただ朧げな記憶ではもう数年あとだったような気がしますが、数年後に二代目ワンマンカーが導入されていたのでしょうか。まず形がちょっと違っていたようなのと、前部に赤字で大きく「ワンマンカー」の表示があったように思うからです。当時大宮五条に住んでいて、初めて買ってもらった自転車の練習で、親父が伴走して夜間に清水坂まで往復していました。当時五条通りは未だ未舗装で(中央部のみの舗装だったかも)、後ろからワンマンカーが追ってきたので慌てて道路脇に寄った際に砂利にタイヤを取られて転倒し、危うく接触しそうになったことを憶えています。永年なぜ五条通りをワンマンがと訝っていましたが、御池通との循環系統だったのですね。
    阪急710の走りもP6と並ぶ豪快なものでした。就職当時の一時期、市電~阪急~堺筋線を経由して通勤していたことがありました。朝は西院から烏丸乗車の鉄鈍爺さんと一緒になっての通勤でした。帰宅時の淡路からの急行が710のスジで、平日は豪快な唸りのモーター音を聞きながらの退勤でした。たまにP6が入ることがあり、これはこれで貴重な体験でした。
    ところで三条駅の写真ですが、電車もさることながら、架線柱の上でペンキを塗っている作業員に目が行きました。命綱を付けているようには見えませんが、当時はこんなものだったのでしょうね。

    • 1900生さま
      続けてコメントをいただき、ありがとうございます。バスに掲げられた地図だけを拡大しました。左が北を指しています。矢印から見ると、市電で言えば「甲」に相当する、内側を巡環する一方路線だったようです。南北は、東大路、千本・大宮を経由していたのでしょうか。1900生さまが実見されたワンマンカーは、もう少し先に増備された車両でしょうか。もともとバスとは縁のないような、五条、御池通を走っていたとは私も驚きでした。ただ、当時は、旧市街地では、今よりもっと細かいネットワークがありました。近くの松原通にも市バスが走っていたと、鉄道界の先輩から聞きました。

  2. このバス路線の東西は五条通と御池通と読めますが、南北は千本通・後院通・大宮通は図面から分かりますが東側は東大路通でしょうか?河原町通ではないでしょうか? 東大路通経由だとすれば東大路から御池通まではどのようなコースだったのでしょうか? 三条通を通って三条河原町を右へ曲がって河原町御池を左へ曲がり堀川通では北へ振って二条城の南側を二条駅まで行って千本通を南下したのでしょうか?
    当時の御池通は河原町から堀川までしかなかったように思います。また、五条通は中央付近しか舗装はなかったし、堀川通りは未舗装だったように記憶しています。
    この写真は(全く根拠はないのですが)二条城南側のような気がしました。小学生の記憶で曖昧ですから推量です。間違っていたらゴメン!

  3. 米手さん

    このバス路線、東は河原町通と読めませんか?
    ご存知の通り、五条通・堀川通・御池通は昭和20年の終戦直前に空襲時の防火帯として強制疎開によって広げられたもので、広い御池通の東は河原町通までだったと思います。
    (東大路から御池へは無理でしょう)
    堀川通もかってはN電の走っていた東堀川通と、堀川を挟んで狭い西堀川通がありました。(私の本籍地は「四条通西堀川西入ル」で、今の堀川通の真ん中あたりにあった家です)
    昭和26年頃の堀川通は中央部2車線分だけはコンクリート舗装してありました。
    (当時はタマに市バスが来るくらいで、今では考えられませんが、堀川通の端から端まで使って草野球をしていました。バスが来たら「タイム!」でちょっとの間 中断でした)
    時期の記憶は定かではありませんが、京都駅~上賀茂間に長いトレーラーバスが堀川通を走っていたことを思い出しました。
    ショーもない話ですみませんでした。

    • 堀川通も中央部のみ舗装されていましたか?
      昭和34年に上賀茂へ行ったとき、堀川通の中央部(緑地帯のあたり)を占領してトマト畑があったのを覚えています。

  4. 米手作市さま 無印不良品さま
    皆さまのご記憶をご披露頂き有難うございます。小生は五条坂の西方でワンマンバスに迫られたと思っていたのですが、いっぽうでトレーラーバスもかすかな記憶があり、例によってごっちゃになった可能性があります。五条坂の西だとすれば東大路を北上したのでしょうが、河原町通りと読めなくもありませんので、河原町通りを北上していた場合は五条坂は通りません。記憶違いでしたらゴメンなさいです。でも米手さまのご証言により、五条通の中央部分だけが舗装されていたということが確認できて幸いでした。

  5. 無印不良品さま、米手さま、1900生さま
    一枚の写真から、数々の思い出を聞かせていただき、ありがとうございます。私も全く知らなかったことを、惜しげもなく、次つぎとご披露いただき、感謝していますか。問題のワンマンバスの経路ですが、上の写真を90度回転して、北が上になるようにしました。たしかに無印さんのご指摘のように、東端の経路は「河原町通」と読めますね。第一、東大路だと、御池通が無く、通ることが出来ませんね。

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