羽村さんが遺したアルバムから 〈4〉

今回のアルバム、羽村さんが最も好きだった阪急京都線を採り上げます。以前、tsurukameさんからの寄稿でも、羽村さん撮影の阪急京都線について、詳細されています(2017年11月27日90622号)。今回は、スキャンしていて新たに発掘できた写真です。
前稿で乙訓老人の思い出にも書かれていますが、羽村さんが好きだったのは“阪急京都線”であり、“阪急”ではありませんでした。京阪電鉄を分離し、新制・京阪神急行電鉄として創立してから、まだ1年しか経っていない昭和25年からの撮影で、京都線は、“新京阪”の面影を十二分に伝えていました。
最初の撮影は、西京極駅で撮られたデイ100形2両の京都行き普通電車をとらえている。周囲の光景は、郊外の様相だが、右手には、西京極野球場(現・わかさスタジアム京都)が見える。この球場は、昭和7年、昭和天皇の成婚を記念して建てられたもの。また電車左手には、現在でも見られる、未成線として残った貨物線の分岐部がわずかに見えている(昭和25年11月)。


続いて、羽村さんは地下線部の坑口付近へ向かっている。編成が切れてしまったが、形式はその年に登場したばかりの810系と分かる。本来は神宝線用だが、電圧転換器を備えた複電圧車両であり、京都線にも入線できた。電車は、昭和25年10月から運転された京都(現・大宮)~神戸(現・神戸三宮)の直通特急で、ダブルの方向板を掲出している(昭和25年11月)。
羽村さんのカメラは、初めて京都府を出て、大阪府に入る。高槻市駅の待避線ホームで写された京都行き、デイ100形2両である。左手の建物など、まだ終戦後の風景だ。左端にバス停も見える。拡大すると「日の出バス」と読める。高槻市のホームページを見ると、日の出バスは、いまの高槻市交通局の前身だと分かった。記事によると、日の出バスは高槻市周辺で営業していた地場の路線バスで、阪急バスに編入後、その営業権を高槻市が譲り受け、昭和29年から市営バスとして発足したそうだ(昭和26年5月)。
高槻市駅の全景を、大阪方の踏切から見ている。上下とも本線・待避線を持つ二面四線の地上駅で、上下の連絡は線路を横断する、当時の郊外電車の中間駅の典型だ。この配線は、連続立体化工事の始まる昭和50年代まで続く。大阪行きホームには、デイ100形が停車中(昭和26年5月)。
続いて京都方へ歩き、大阪医科大学前で“走り”を撮っている。電柱に邪魔されたが、高速で通過する特急をピタリと止められている。京都線の特急は昭和25年10月から、京都~天神橋で再開された。車両は、デイ100形をマルーンとオレンジに塗り分け、銀帯を締め、車内をクロスシートにした、特急専用車が用意された。同区間を無停車、36分で走り抜けた。

同じく大阪医科大学前を行く、上り特急。tsurukameさんも投稿された写真で、羽村さんがとくに好きだった、阪急京都線デイ100形の代表作だろう(昭和26年5月)。

阪急京都線については、1998年に発行された鉄道ピクトリアル臨時増刊「阪急電鉄」に、OB会でグラフページをもらって、会員の写真を載せた。トップに何を持ってくるか考えた結果、やはり、羽村さんのこの写真を載せることにした。羽村さん思いを伝えることができて、今でも良かったと思っているし、手前味噌ながら、横組みの本に、タイトルだけを縦に置いたレイアウトや、「新京阪残影」と言うタイトルも、なかなかのものと自賛している。

その後の後日譚があって、2001年に阪急電鉄から発行された「ラガールカード」に、なんとこの写真が載った(右写真の下)。それも、ご丁重に、車体だけ着色されて、マルーン・オレンジの塗り分けになっている。もちろんこの2001年時点では、このアルバムは、乙訓老人の書庫の奥深くにあり、ネガが提供された形跡はなく、どのような経緯で載ったのかは、いまも不明だ。阪急サンのこと、コンプライアンスだけは、しっかり遵守されていると信じている。

 羽村さんが遺したアルバムから 〈4〉」への5件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    待ってました! デイ100はこの大型幌付きでないと駄目ですね。私がこの電車に乗りたくてわざわざ京都郊外のとある場所に下宿を移した頃はデイ100は急行6連で活躍してそれはそれで豪快そのものでしたが正面の顏だけは納得できませんでした。高槻市のこの風景の中、2800系が特急で通過する時の豪快(?)な短い軌条の継ぎ目音はスピード感がよりました感じで好きでした。高槻市のような感じの駅は現在は近鉄名古屋線等にまだ残っています。複電圧車810系の京都線内の写真は始めて見ました。阪急最初の統一規格車両の710系はトップナンバーは711であるのに対して神戸線810系のトップナンバーはこの810であるところが阪急、新京阪の間に諸事情があったことがうかがわれます。日の出バス、西京極駅の未成貨物線跡等勉強させていただきました。手前味噌をさらに美味しく発展させた次の阪急特集が今から楽しみです。

  2. 準特急さま
    嬉しいコメント、ありがとうございます。そうですね、デイ100は、この大型幌付きに限りますね。ただ私は実際に見た記憶は無いのですが、お書きのように、短尺レールの上を激しい継ぎ目音を響かせて、爆走する改造後のデイ100は、よく覚えています。複電圧車の件ですが、私も京都線を行く710系「かげき」は準特急さんの写真で知っていますが、逆に810系が京都線に乗り入れているのは、初めて知りました。古い写真は、車両だけで無く、周辺の事物にも、興味深い事象があります。浅学ですが、写真を読み解いて、できるだけ載せるようにしています。まだ阪急の写真も多数ありますので、順次載せていきます。

  3. 総本家青信号特派員様

    小生にとって唯一の『私鉄』は正しく『阪急・京都線』でした。
    但し、自身の見聞は昭和30年代で、新京阪⇒京阪・新京阪線⇒京阪神急行・京都線の長い歴史の内、ほんの短い期間に過ぎず、小生が関西を離れる頃に現れた2300系止まりでしかありません。

    さて、今回の『羽村さんが遺したアルバムから』には、かの重厚なP6が掲載されており、
    『阪急・京都線』ファンの小生をワクワクとさせました。
    我が『国電』を凌ぐデイには本当に兜を脱がざるを得なかった記憶が蘇りました。

    ところで、3枚目の写真にはビックリ!
    撮影日時は違えど、瓜二つのショットが小生のネガにも有り、少しでも羽村氏に近付く事が出来たかと満足感に浸る事ができました。
    なお、小生のこの写真は、確かピク誌2018年2月号の『想い出の阪急京都線』で説明写真として使用し、掲載されました。

    • 河さま
      もう一人熱烈な“阪急京都線”ファンの河さまを差し置いて、失礼しました。多感な時代を、沿線で育たれた河さまにとっては、京都線、なかでもP6への思いは、強いものがあったと思います。
      さて、ピク2018年2月号、再読しました。もちろん、ピクに寄稿されていたのは知っていたのですが、個々の写真までは記憶していませんでした。たしかに…、撮影場所は違いますが、P6の2連が、待避線ホームで停車する構図は、全く同じですね。羽村さんの想いと、河さまの想いが一致したのでしょうか。引き続き、投稿していきます。また当時の思い出を聞かせてください。

  4. 関三平先生が、以前に発表されていたのを再掲載致します。
    2011年3月7日の産経新聞夕刊ですが、この4日後に東日本大震災がおこりました。

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