【100484】 羽村さんが遺したアルバムから 〈5〉

百万遍の停留場で多くの乗客を乗せる800形のトップナンバー車、ポール集電の800形は、この年に新製が始まったバリバリの新車だった(昭和25年1月)。

今回は、羽村さんにとって、いちばん身近だった京都市電です。京都大学の近くにお住まいだった羽村さんにとっては、京都市電は趣味活動の原点でもあったでしょう。例の細密な系統図を描かれた「青信号」の記事“京都市電雑感”にも、冒頭で「京都に生まれ京都に育った小生にとって、京都市電は何と云ってもなじみの深い電車である(原文ママ)」と述べられています。これらの写真を撮られたのは、昭和25、26年であり、全盛時代の到達までには、まだ少し時代をさかのぼる終戦直後の空気が残っていました。

京都駅前の一角には、N電の乗り場があった。広軌の1形と区別するため「N」が付与されている。背後に丸物百貨店が見える撮影場所は、廃止時まであった塩小路通の路上で、現在の新阪急ホテル前に当たる。この当時はまだ木造二階建て商店があった(昭和25年1月)。駅前の伏見線乗り場に来たのは、パンタ、ポールの両方を装備した535号、当時集電はすべてポールだったが、将来に向けてビューゲル、パンタグラフと、両方のテストを始めていた。また、この535は、戦時中、片側の座席を撤去していたが、ここに簡易式のクロスシートを装備した。この写真では車内の様子がよく分からないが、“京都市電にもロマンスカー”と話題になったそうだ(昭和26年8月)。
続いて伏見線の乗り場には624号が到着する。これもパンタ装備で、あと622号にも付けられて、伏見線で集中的にテストされた。系統板はついていないが、行き先は「いなり」とあり、廃止時の19号系統に相当する。左手には七条警察からの大きな看板が見える。いつもコメントをいただく宮崎さんからも、よく600形が紹介されるが、これは更新前の小窓3枚車に当たる(昭和26年8月)。
単車の300形が、西大路四条の梅津線の乗り場で発車を待つ。この時代、単車の200形201~293、300形301~350の全車が揃っていた。梅津線は西大路四条~梅津のチョン行で、よく見られたのは短縮車体の514形だが、単車の300形も入線していた(昭和26年3月)。
天王町の668号、右手を見ると車止めのような木杭がある。まだ白川線天王町~銀閣寺前ができる前の時代で、天王町は丸太町線の終点だった。2号系統はここで折り返し、「2」の系統板も、ひと時代前のスタイルだ。「草津競馬」と書かれた広告も面白い(昭和26年3月)。
同じく天王町の506号、まだ更新前で、中央扉も生きていた時代で、窓が4分割されている。まわりは家一軒見当たらない、寂しい雰囲気だ。右手に異様に大きな看板が見えるが、地図のようだ(昭和26年3月)。大型車体の1000形、まだ単車の広軌1形、200形、300形が幅を利かせていた時代、戦後初の新造車で、13.7mの車体はホントに大きく見えたことだろう(昭和26年3月)。
こちらは銀閣寺前。白川線の開通前であり、天王町と同じく、ここが終点の時代。興味深いことが二つあり、系統版は廃止前には無かった「3」だ。当時のルートは、四条河原町~烏丸車庫~四条大宮~祇園~銀閣寺前という超ロングランで、この翌年には、京都駅前~四条河原町~銀閣寺前に改められる。そして、左手には廃車体が見えるが、これは500形の短縮車体を利用した、操車事務所だったとのこと(昭和26年3月)

 羽村さんが遺したアルバムから 〈5〉” への9件のコメント

  1. “まるで昨日撮ったようにキレイに撮れている”とは、まだ誰からも褒められていませんが、羽村さんの撮られた写真、キレイでしょ。別にこれは私のスキャン技術では無く、羽村さんのカメラ、フィルムが、この時代にしては破格の高級品だったのです。その証拠に、時々、映画フィルムを流用したものがあり、仕上がりが良くありません。
    羽村さんの人となりについては、先般の「楽」車内でも乙訓老人からトクと聞かせてもらい、恵まれた家庭で育たれたことも聞かせてもらいました。

    • 総本家青信号特派員さま
      仰せの通り写真が綺麗です。当時の写真を取り巻く環境を知りませんので何ともコメントできませんが、構図の設定といい「ついでにちょっと撮った」もので無かったことは充分に窺えます。羽村さんの市電に対する愛情のようなものを感じます。京都市電のことなので何かコメントしたいと思うのですが、小生が4~5歳頃とあっては何も知りません。特派員さまの別稿市電ひろばの写真と併せて久しぶりにまた市電の想い出に浸らせて頂きました。
      ところで1000形のキャプション中に車長が23.7mとありますがホントでしょうか?13.7とかの間違いでは?素朴な疑問ですが、どう考えても20m以上もあったとは思えないのですが。

      • 1900生さま
        コメントを頂戴し、ありがとうございます。ご指摘の1000形の車長ですが、仰せの通り13.7mの間違いでした。いくら長いと言っても、国鉄車両より長いことはあり得ません。訂正しておきます。ありがどうございました。

  2. いつもコメントが遅い、外野の宮崎です。羽村さまの名前は、遠い昔の記憶としてございましが、同志社の方とは、存じませんでした。小生は、出発は模型少年で、羽村さまの記事を拝見したのは、TMS特集シリーズ2「レイアウト・ブック」の「僕の鉄道 吉田急行電鉄」でした。本棚から引張り出し調べると、昭和37年の第5版ですから、小学生の頃でしょう。元記事は、TMS33号(昭26年5月号)の掲載ですから、なんと私が生まれる前のことです。何によらず、続けていると意外なことが起きるものですね。こんな素敵な写真を撮影されていたことを、50年以上経って知ったと云う訳でした。惜しみなく公開された、総本家青信号特派員様に、感謝申し上げます。

    言葉だけでの感謝では、もの足らぬなどと云う輩が、デジ青の皆様に居るなどと、露ほども思っておりませんが、ここはやはり形のあるもので感謝、と云う訳で600形の写真(またか?!)を投稿しますから、お楽しみ下さい。撮り人知らずのデータなし写真で恐縮ですが。ダブルポールなので、戦前でしょう。背景のビルが、米手さまに教えた頂いた菊水のようにも見えます。もしそうなら、四条京阪と云うことになります。

    • 宮崎様
      満を持してのコメントを頂戴し、ありがとうございます。惜しみなく公開して喜んでいただき、嬉しく思います。まず、羽村さんの名前をよくぞ覚えておられたと感心しました。実は私も羽村さんの「吉田急行電鉄」がTMSに載ったことは覚えていました。ただかなり古い号で、当時のTMSも処分してしまい、手掛かりがないまま悶々としていました。それを明確にご教示いただき、永年の肩の荷が下りました。羽村さんは京都大学の近くにお住まいで、地名を採って吉田急行電鉄と名付けられたレイアウトを作っておられました。このアルバムにもレイアウトや製作されたP-6の模型がよく登場します。また、それらも公開したいと思っています。
      また宮崎様からも600形の貴重な写真を拝見しました。この撮影場所が米手さんも巻き込んで議論されています。菊水ビルは、写真のように縦長の半円窓が続いていました。たしかに、現在では、屋上に塔屋があって写真とは違うようにも見えますが、塔屋は西側に偏って設けられており、この写真からは見えないはずです。ただ写真には、屋上に何やら構造物がありますので、これらが撤去されたのなら、菊水ビルで間違いないのではと思います。

  3. 宮崎 繁幹様、
    お久しぶりです。
    この写真のビルですがよく解りません。確かに窓の形状が菊水ビルのようですが、屋上の構築物の形が塔屋とは違うようにも見えます。市電は九条車庫の607号ですから四条通でもいいのですが、よく解りません。申し訳ございません。

  4. 米手さまには、早速にコメントを賜り、有難うございました。羽村さまの美しい写真に較ぶべきもありませんが、比較的短かかった、シングルポール時代の京都市電の写真を見せて頂いたのに便乗し、同時代の600形の写真をもう1枚だけ、投稿致します。後期型の693号ですが、2系統であると云うだけで、どこがどこやら場所は、全く判りません。

    • 宮崎 繁幹様
      シングルポール時代は昭和23年から遅くとも昭和30年までです。銀閣寺道から天王町までの白川通に市電が走ったのは昭和29年。それ以前の②号系統は天王町ー西大路九条の折り返し運転でした。方向幕がよく読めないのですが「天王町」ではないように思いますので「西大路九条」かと思います。車道が未舗装ですから西大路通を南下しているのでは。太陽が南に傾いていますので冬から春先の季節でしょう。以上、根拠・確信のない推理です。間違っていたらごめんなさい。

      • 米手さまの分析には、いつも感心しております。写真には、鮮明ではないが尾灯下部に、占領軍向けの警告“PASS STOPPED CARS AT 5MPH”が、写っています。これは、講和条約が締結された後には、抹消された筈ですので、御説の通り、この写真は、昭和29年以前の折り返し運転時代に、撮影されたものと存じます。

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