建設途上の三代目京都駅を見届けた羽村さんは、東側にある高倉陸橋へ向かいました。通称“タカバシ”は、京都の鉄道少年にとって思い出の詰まった場所でしょう。私も、小学生のころ自転車に乗って陸橋まで行き、上下する列車を飽かずに見ていたことがあります。そして未電化時代には、陸橋の下に、蒸機の溜まり場があって、絶好のビューポイントになっていました。
▲高倉陸橋の下の設備は、“東駐泊所”と言われ、東海道線の未電化時代、梅小路機関区との往復の手間を省くため、転車台、給炭設備を置いて蒸機を駐泊させていた。本日、転車台に乗っているのは亀山機関区のC51100だ。草津線の客貨を牽いて、京都まで顔を出したのだろう。亀山のC51と言えば、晩年の225号機が有名だが、ひと足先に廃車になった100号機も、化粧煙突、形式入りのプレートと、完璧なC51だった。さらに前歴をたどれば、お召の牽引も多く、キリのいい番号といい、C51の代表でもあった (写真はすべて昭和27年3月1日撮影)。
この駐泊所の正式な名称は、梅小路機関区京都機関車転向給炭水所と呼ぶそうだ。本家の梅小路機関区は、大正3年、京都機関庫と二条機関庫が合併し、東海道旧線跡に梅小路機関庫(のち梅小路機関区)として誕生した。ちょうど、線路移設により新しい二代目京都駅ができた時であり、当時に京都駅構内には京都給炭水所ができた。つまり本家の梅小路機関区と同じ歴史があるわけだ。東海道線の電化後も、奈良線、草津線の蒸機が出入りしていた。設備が無くなったのは、昭和30年の中頃だったと思うが、その後、電機の駐泊整備に模様替えされた。
▲高倉陸橋を八条口へ下がっていくと、線路とレベルになり、形式写真も撮れた。真っ先に目に飛び込んだのがC621だ。当時は宮原機関区の所属で、東海道の旅客を牽いていたためスノウプロウを装備している。製造後、まだ4年で、砂撒き管もない原形のC62だ。標識灯も取り外し式で、山陽筋に転属してから、端梁に埋め込まれる。
▲C621の後にもう一両蒸機が見える。近づいて見ると、C591ではないか。大型旅客機の1号機が揃って、羽村さんは感動したことだろう。この時期、梅小路機関区の配置はC59のほうが多かった。とくに、スノウプロウを付ける冬期は、C62運用がC59に差し替えられることもあったと言う。これは、車内暖房に必要な炭水車の容量の差だと言う。つまりC59の炭水車は10-25形(石炭10t、水25t)に対し、C62は10-22形であり、C59のほうが3t水が多く積める。この差が、暖房を必要とする冬期にはC59が好まれたそうだ。▲最後は、陸橋に戻り、京都13時12分発の上り特急「はと」の発車をとらえた。背後の京都駅は煙に隠れてしまった。「はと」は、「つばめ」に次いで戦後二番目の特急として昭和25年5月に誕生した。牽引は宮原区のC6233、最後尾にスイテ49を連結した11両編成が鴨川鉄橋に掛かる。
総本家青信号特派員さま
最初の写真は小生にとってたいへん懐かしいアングルです。東寺の西に住んでいたので、普段は梅小路の南西地点から往来する列車を眺めていることが多かったのですが、小学校高学年になってからはよく友達と連れ立って高倉陸橋まで遠征したものです。ただ電化後でしたから目にするのは大半がEF58でたまにEF15やEH10が混じるという状況でした。蒸機は殆ど記憶がありません。写真の位置からEF58等が庫や留置線から出て来て転車台に上がり、転線して引上げ線に東進していったのをよく憶えています。米原行80系湘南電車や電機を上から見下ろすことをここで初めて体験し、パンタの擦板が銅色に光っているのを初めて知りました。狭い陸橋上は市電や市バスが走り、いささか身の危険を感じることも度々でしたが、今思うとよくケガをしなかったものと思います。小生の鉄道趣味の原点のうちの一か所です。
1900生さま
高倉陸橋のことは、過去に米手さんや沖中老人からも投稿があったと思いますが、まさに鉄道趣味の原点とも言える、懐かしい場所ですね。とくに、塩小路通りを上がっていって、パッと目に入る冒頭の写真のアングルは、私もとくに思い出に残ります。ただ、私も東海道線蒸機の時代は知りませんが、奈良線の蒸機や構内の入換え機はかなり後年まで残っていたと思います。
外野より失礼致します。貴重な、C62初号機の初期記録に、眼を惹かれました。宮原区に転属した時点でも、製造時の特徴を残していたことが判る良い写真です。砂撒き管はありますが、前進用の2本のみです。ドーム横に引出部が、第1・2動輪の前に砂撒き管が、観察できます。後部に切欠きの無いテンダー、ドームに伸びた加減弁引き棒が、上部作用であるなどの特徴を、1枚でよく表しています。この姿で、スノープローを装備した記録は、初登場ではないでしょうか。羽村さまは、電車ばかりでなく、広く鉄道の記録を残されていたのですね。
宮崎繁幹さま
いつもコメントを頂戴し、ありがとうございます。この時期に撮られたC621は貴重だとの証言をいただき、私も今日は本をひっくり返して、確かめていました。当会の人間国宝は、さすがに昭和25年には、25回も山科のカーブに通ったと証言されています。ただ、1号機は、それほど調子が良くなかったらしく、優等列車に使われたのは極めて稀なようで、山科を行くC621は確認出来ませんでした。
宮崎様もお書きのように当時の砂撒き管はボイラーの内側を通っていたため、スッキリしているのですね。テンダーも切欠きの無い一直線スタイルは、1号機だけで、まだメカニカルストーカーの未整備の時代の貴重な記録と言えます。羽村さんは、蒸機の点数は少ないのですが、それだけに一点一点心を込めて撮られています。
総本家青信号特派員様
東海道、山陽筋の大型旅客用蒸機トップナンバーの若き時代の勇姿。特にC621は今まで見たことがないすっきりしたとサイドビューですね。スノープローを付けた姿も格好いいです。私はC621は広島運転所時代、C591は熊本時代の撮影で何れも晩年の姿で羽村さんの撮られたものとは印象が異なります。
C51100などこのような高倉陸橋からの作品は先輩OBである佐竹さん、湯口さんそして高橋さん(五条坂の写真屋さん)など京都の先達に多く見られよく掲載誌を眺めたものです。
準特急さま
準特急さんが撮られたC621、C591は、私も写真をいただいて、大事に持っています。晩年ですが、ヘッドマーク付きの貴重なものです。代表的な大型旅客蒸機の1号機が、たまたま京都駅の外れに並んでいたとは、これも貴重だと思います。この陸橋は、京都在住の先達だけでなく、戦前の時代から、西尾克三郎さんや杵屋栄二さん、戦後も黒岩保美さんと、東京からのファンも立ち寄ったところでした。