【100199】 羽村さんが遺したアルバムから 〈2〉

最初の撮影は、昭和25年3月12日、この写真から始まっている。背後の建物は、大正時代に建てられた二代目京都駅、撮影場所は、いまで言う、八条口側から撮られたもの。手前には多くの側線があり、京都駅に発着する客車の留置線になっていた。スハ32系の客車を8620型が入換えをしているところだろう。ハチロクは、この当時、梅小路区に14両も配置され、東海道本線の貨物列車の補機、大津、石山、草津あたりまでの軽貨物の牽引、奈良線の貨物、時には入換えと大活躍していた。

この二代目駅舎、この撮影後の8ヵ月先の11月18日の早暁に、紅蓮の炎に包まれる。火は東側から発火し、次第に西側へ移り、いちばん高い時計塔も、貴賓室も焼き尽くした。大正、昭和と、二度の御大典をつとめた格式の駅舎だったが、わずか数時間で灰燼に帰した。原因は、都ホテルの食堂で、アイロンの切り忘れだったと言われる。この年は、金閣寺の放火や、松竹下鴨撮影所の火災もあって、京都は火事続きだった。
その後ただちに駅舎の再建案が練られた。一時は、懸案の高架化も検討されたが、予算、時間の関係で見送られ、地上駅のままで新築することにし、わずか1年4ヵ月の突貫工事で、昭和27年5月に新駅舎が完成した。これが、いまの駅ビルができるまで、平成5年まで営業した三代目駅舎だった。

続いて、撮影は京都駅前に移る。市電1000形が停車して、角帽の大学生を乗せている。背後は、左は丸物百貨店、いまのヨドバシカメラ京都店、右手に写っているのは当時の中央郵便局、いまの京都タワービルの位置である。すると、市電は南北を向いているように見える。ハテ、京都駅前では市電は東西を向いたはずと訝る向きもあるだろうが、この時代、京都駅前はループ線になっており、ぐるっと一周するため、南北を向くこともあったのだ。市電は降車場で人を下ろし、少し進んで乗車場へ向かう。向きを変えずに、そのまま発車できるから、効率がいい。以前は、各地で見られたが、本数が増加すると、時間調整などが立ち行かなくなり、京都駅前も、ターミナル式に造り変えて、駅前広場を一新した。

 羽村さんが遺したアルバムから 〈2〉” への7件のコメント

  1. いずれの写真も国宝級ですね、ご掲載ありがとうございます。

    京都駅周辺の高架構想は、「古都の占領」(平凡社/2017)という本で知りましたが、別に大きな踏切がある訳でなく、また東山トンネルから桂川までの地形や梅小路の存在等から、「構想」としても高架なんかホンマかいな??、という印象を持ちました。
    同書では、京都駅高架の他、駅火災や北野線の堀川への転落事故等の鉄道ネタや本欄でも話題になったことがあった「洛陽ホテル」等に触れられてます。
    著者の西川祐子さんは、奥付によれば同志社中・高のご出身、さらに参考文献のひとつに特派員様上梓の「京都の市電」が挙げられてました。

  2. 宇都家さま
    今日は、お越しいただき、ありがどうございました。そして、いつも暖かいコメントを頂戴し、嬉しく思っています。「古都の占領」という本、知っていますよ。書店で立ち読みしただけですが、参考文献に「京都の市電」があったことは覚えています。でも、著者が同志社中・高出身とは知りませんでした。戦争とは一見無縁に思われる京都ですが、仔細に見ると、戦争にまつわる遺跡・遺構があるのですね。京都駅の高架構想は、まず二代目駅舎建設の際に検討されましたが、大正天皇の御大典があり、時間優先で、地上駅のままになりました。そして、今回記載の三代目駅舎建設の時も、費用・時間で地上駅となりました。ところが、いまの四代目建設の際は、高架化構想は微塵も無かったようです。

    • 昨日はありがとうございました

      踏切がなかった、と書きましたが、当時は堀川通のアンダーパスもなかったのでしょうか、線路で街が分断されているのを改良しようとしたんでしょうね

  3. 宇都家様
    昨日はお疲れ様でした。
    『堀川通のアンダーパスもなかったのでしょうか』とのことですが、直近の安寧小学校卒業生としてお答えします。
    南下してきた堀川通は、七条通で打ち切られていましたが、疎開で広がった道路用地は東海道線の寸前まで迫っていました。ただし東側から南下してきた油小路通がマンプとして貫通していました。これはその当時のままに現存しています。
    掘削が始まった頃の堀川通の写真がありますのでご覧下さい。

    • 説明を忘れました。
      DF50は京都駅へ入る上り列車。右奥の屋根は現・リーガロイヤルホテル。その奥はタキイ種苗本社。カメラの後が油小路通で、クラウンの走っている道は今は梅小路公園へ歩いて行く道になっています。

      下の写真は左端に油小路のマンプが写っています。右の石垣は当時は畑ですが、今は各種学校のビルになっています。この付近は60年経ってもほとんどかわっていませんが、まもなく堀川通の拡張工事が始まるのでマンプもなくなるのではないでしょうか。

  4. 米手作市さま
    ご懇切に貴重な写真入りでのご解説ありがとうございます。
    当時、車で東海道線を横断できたのは、高倉、大宮の陸橋と辛うじて河原町通のアンダーパス、だったんですね
    写真は上が1961、2年頃、下が1955年頃と見ましたがいかがでしょう??
    油小路のマンプも現存のうちに見ておきたいと思います。

     

    • ご明察!
      下の写真は1957年1月と書いてありますが、上の写真は控えが見つかりません。すみません

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