なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈12〉

モノクロ版 昭和の南海駅 (1)岸里玉出

先日、行われたクローバー会のイベント、南海汐見橋線の乗り歩きは、コロナ禍後の久しぶりの会合となりました。汐見橋線には何度か行ったことがあるものの、乗るだけの“線”移動に留まっていましたが、今回は、勘秀峰さんの企画で、市営の渡船に乗ったり、ディープな商店街を歩いたりと、“面”のツアーとなり、見識をあらたにしました。終ってからの“餃子にビール”も、たまりませんでした。今回は、モノクロ版となり、看板に偽りありですが、50年前の付近を復習しました。

集合地は、南海の岸里玉出駅。勘秀峰さん作成のミニメモをもらい、概要の説明を受けます。皆さんからは、いろいろな疑問が飛び交います。「岸里玉出って、長い駅名やなぁ」「なんで地下通路がこんな長いねん」、果ては「駅前へタコ焼き買いに行ったけど、休んどったでぇ」とか、さまざまな言葉が飛び交いました。

昭和の時代の岸里玉出駅、当時の岸ノ里駅、難波方面から入線する本線の電車を見ている。勘秀峰さんのミニメモのように、南海本線は地上線、汐見橋線を含む高野線は高架線で、両者は、斜めに交差していてホームは別々にあった。ガードに書かれているように、当時は駅名に「ノ」が入っていた。市営地下鉄に「玉出」があり、その区別のため「ノ」入りとなったようだ(以下、昭和59年5月)。

本線を渡る踏切から、和歌山方面を見る。高野線が高架で本線を横切っていく。高架の高野線の側には、長らく汐見橋発着のホームがあるだけで、難波発着の連絡線にはホームがなく通過扱いだった。昭和45年に高野線用のホームが新設されて解消したが、これが本線とは超長い連絡通路となった。

本線は、岸ノ里から線路別の複々線になる。急行線(左)、緩行線(右)に分かれるから、駅ホームは三面四線の大規模なものだった。

岸ノ里駅舎と玉出駅舎、腰折れ屋根の同一意匠の駅舎で、粉浜、諏訪ノ森、高師浜、蛸地蔵などと共通するデザインだった。両者は300mしか離れておらず、高架化に当たって、統合されて現在の岸里玉出駅になった。

4 thoughts on “ なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈12〉

  1. 昭和42年5月28日、岸ノ里駅停車中の住吉公園発難波行「各駅停車」です。
    昭和59年、特派員さんの撮影と比べると「ノ」が小さいです。
    当時、南海本線の列車は、粉浜、玉出、岸ノ里は「普通」も含めて全列車通過、その代わりに住吉公園発で本線列車の通過駅と萩ノ茶屋、今宮戎にも停車する「各駅停車」が1時間に3~4本運転されており、「東線(とうせん)」と呼ばれていました。

    • 藤本様
      さらに古い時代の貴重な63形、ありがとうございます。岸ノ里の「ノ」はたしかに小さいですね。複々線の区分を急行線、緩行線と記しましたが、南海の慣例によって、普通用、各駅停車用と区分されていたのですね。ありがとうございました。

  2. かつて毎日見ていた懐かしい光景、ありがとうございます。
    特派員さま、藤本さまご投稿の写真でも見てとれますが、本線をオーバークロスする高野線のガードが低く、潜り抜ける本線のパンタがペシャンコ状態だったのがすごく印象に残っています。
    高野線の築堤が本線未電化時代のママのため、だったのでしょうか?

  3. 1番目の画像配信は高架工事着手前の岸里駅付近のものです、南海本線の岸里駅の真上には高野線の愛称でもあります汐見橋線がありました。

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